のちの“盟友”のクーデターで「衣錦還郷」の舞台が整う

 重光が21年ぶりの帰国を果たす1年前の1961(昭和36)年5月16日。韓国では、のちに“盟友”として重光の人生を左右することになる朴正熙(パク・チョンヒ)の仕掛けた「5・16クーデター」が勃発していた。その後、30年にわたる軍事政権の誕生であり、韓国でロッテグループを巨大財閥へ押し上げることになる、朴大統領の「開発独裁」(経済発展優先のため国民の政治参加などを制限する独裁体制)の始まりである。

ロッテ重光を待ち受けていた、韓国政府の「2度の裏切り」クーデター2日後の朴正熙少将(左端、1961年)

 ここで当時の韓国の歴史を簡単におさらいしておこう。48(昭和23)年8月の建国時からの初代大統領・李承晩(イ・スンマン)は、60(昭和35)年4月、「4・19学生革命」と呼ばれる民主化運動で下野し、ハワイに亡命した。この背景にあったのは、米国が対韓支援を無償贈与から有償援助へ変更したことで、韓国経済が瀕死の状況に陥ったことが挙げられる。李の独裁に懲りた憲法改正で大統領権限を大幅に縮小、初の議院内閣制によるいわゆる「第二共和国」となったが、政情の不安定は続いた。

 そして5月16日、朴正煕が最高指揮官となった革命軍が首都を制圧し、軍事革命委員会を立ち上げた。その3日後には国家再建最高会議という韓国軍陸軍士官学校8期生が中心となった軍事政権が成立する。63(昭和38)年12月、朴は大統領に就任、憲法改正で大統領権限を強めた「第三共和国」を立ち上げた。その経済政策の根本となったのが、前政権が策定していた韓国史上初の経済開発計画「5カ年計画」(62〈昭和37〉~66〈昭和41〉年)で、その後、朴政権は「開発独裁」の下で、外国資本導入や重工業中心の工業化を推し進めていくのである。

 この韓国の劇的変化に呼応してか、この頃から在日韓国人実業家の動向が韓国の新聞でも報じられるようになっていく。例えば、前出の京郷新聞の60(昭和35)年11月の記事では、先の李康友と辛格浩(重光)に加え、大和製罐の孫達元(ソン・ダルウォン)、阪本紡績の徐甲虎(ソ・ガプホ)を列挙した後、こう報じている。

「前記した在日韓国人の実業家らは大部分が(李承晩)独裁政権が辞任した祖国に来てどんな業績でも残したいという意思を吐露しているが、この(李)政権が残した悪弊の一つである“企業家が政治の中に連れていかれる”のが怖くてぐずついている」(*1)

 在日韓国人の成功者が「衣錦還郷」の意志を抱いているにもかかわらず、「企業家が政治の中に連れていかれる」、つまり政治家に便宜供与(賄賂)を要求され、癒着が常態化する恐れがあることから帰国を躊躇している、という指摘である。そうした腐敗構造を朴政権がクーデターで払拭したことで(実際には温存されたが)、在日成功者の「衣錦還郷」を実現できる舞台が整えられたというわけである。

 この結果、例えば「西日本最大の紡績王」と呼ばれた徐甲虎は朴大統領の懇願に応じて63(昭和38)年に115億円、翌64年には171億円を投じて韓国内に立て続けに紡績工場を設立し、在日韓国人資本による初の本格進出として歴史に名を刻んだ(後に韓国から撤退し、74〈昭和49〉年に日本の本社を含む企業グループが当時で繊維業界史上最大となる負債総額で倒産)。

 祖国訪問からほどなく、重光は水面下で日韓国交正常化の交渉に関与していく。そもそも重光は50年代末にある経済団体の会合で紹介を受け、戦後を代表する大物政治家の岸信介と親交があった。57(昭和32)年2月から60(昭和35)年7月まで首相を務めた岸は、日韓国交正常化を強く推進した親韓派の筆頭だった。岸との親交から広がった官僚や政治家たちとの人脈は、日韓交流に生かされていく。「韓国の朴正熙に匹敵する、日本の“盟友”が岸信介であり、重光は韓国ロビー(ロビイスト)の元祖」という“都市伝説”が広く流布されていたほどである。チューイングガムの輸入自由化阻止や、プロ野球球団「東京オリオンズ」の引き受けなど、実際の2人の濃厚な関係が垣間見えるエピソードは章を改めて解説する。

 重光の“暗躍”が公文書に克明に記録されているケースもある。62(昭和37)年6月6日、駐日韓国大使が韓国の外務部長官(外務大臣に相当)に送った公文、「ロッテガム会社社長、重光武雄の伊関面談報告」からは、重光が日韓国交正常化交渉で果たしていた役割が見て取れる。その公文は以下のような説明から始まる。

 当地の在日韓国人実業家である「ロッテガム会社社長、重光武雄」は6月5日午後に本人(駐日韓国大使)を訪問し、同日の午前に伊関(日本)アジア局長と外務省事務室で面談したが、その内容が以下のとおりだと電話して来たので報告する(ロッテ会社社長重光武雄は韓国商工会の顧問で当地在日韓国人の間で人望が高く、日韓実業家間でも信望が大きい者であり、大蔵省理財局長「イナマバスシゲル」と個人的にまたは家族的に非常に厚い親交関係を持っている)。

 この記録から、重光武雄が外務省アジア局長の伊関裕二郎と単独で面談し、その内容を駐日韓国大使の裵義煥(ペ・ウィファン)に直接電話で知らせた事実を知ることができる(「イナマバスシゲル」は稲益繁・大蔵省理財局長の誤記)。このときに重光が伝えたのは、伊関局長の訪韓、対日請求権の金額、韓国の日本漁船拿捕や韓国人旅行者の日本滞在時間の問題など、どれもが政治的に敏感なものだった。国交回復前で公式な外交ルートを持たない日韓両国が、重光という“非公式ルート”を介して情報交換を行っていたのだ。こうしたセンシティブな交渉の仲介者になることが、重光にとっては「事業のために忘れていた私の祖国に対する小さな恩返し」となったのである。

 かくて、65(昭和40)年6月22日、佐藤栄作総理大臣と朴大統領は日韓基本条約を締結し、10(明治43)年発効の日韓併合により消滅していた両国の国交を回復した。

*1 『京郷新聞』1960年11月21日付