武田豊新日本製鐵社長

 武田豊(1914年1月6日~2004年2月15日)は、1981年に新日本製鐵の社長に就任、人員削減や設備集約といった合理化や、エレクトロニクス、新素材などの新規分野に経営資源を投入する事業構造の大転換に取り組んだ人物だ。

 とりわけ、85年秋のプラザ合意によるドル安誘導政策で急激に円高が進行したことで、鉄鋼の輸出は大ダメージを受ける。85年から89年にかけて粗鋼輸出は3分の2以下にまで減った。 今回の武田のインタビューは、そんなさなかの86年11月8日号の「週刊ダイヤモンド」に掲載されたものだ。

 日本だけでなく、米国でも第2次産業から第3次産業へと産業構造が大きく変化している時代で、冒頭で武田はUSスチールを例に挙げている。USスチールは石油、天然ガス会社を相次いで買収し、全事業に占める粗鋼生産高が24%にまで低下。鉄鋼会社としての実態を失い、86年7月に社名をUSXに変更(後に再びUSスチールに改称)していた。かくのごとく、鉄鋼業に構造変化の嵐が吹き荒れていた時代である。インタビューの中でも「鉄は国家なり」などと偉ぶる時代ではないと強調している。

 その武田はまさに「鉄は国家なり」の時代を生きた鉄鋼マンあった。39年に日本製鉄に入社すると、第一購買課長だった永野重雄(後の新日鐵会長で、戦後の財界リーダーの一人)の下に配属される。戦時中は鉄鋼統制会へ転出し、計画統制経済の下で政府と企業を媒介する役を担った。もっとも武田は当時、「近代戦争をやるためには1000万トン以上の粗鋼生産がないと無理だといわれたが、日本の生産実績は最高で41年の765万トンだった。これで本当に戦争に勝てるのかと思っていた」と、週刊ダイヤモンドの別の記事で明かしている。

 49年に日鉄に復社するが、大企業への経済力の集中を排除する「過度経済力集中排除法」によって日鉄は八幡製鉄と富士製鉄に解体される。富士製鉄で永野の秘書兼人事部長を務め、45年の新日鐵の発足と同時に専務となり、81年に社長就任したという経緯だ。

 さて、前述したように、武田の時代に新日鐵は、鉄鋼以外の新規事業を次々に立ち上げ、「複合経営」を目指した。そして、いかにも“鉄”のような鈍重で硬直的な組織から、時代の変化に柔軟に適応する軽快な組織への移行を目指したが、その結果はあまりはかばかしくなかった。システムインテグレーターの日鉄ソリューションズのように成功例もあるが、鉄に代わる「産業のコメ」、すなわち新たな素材としての期待を集めた半導体事業をはじめ、多くは失敗し、撤退に追い込まれたのである。(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

2次産業に対する興味が薄らぐ
米国は短期の収益優先の傾向

――米国の鉄鋼業が激しく動いているのをどう見られますか。

新日鐵社長、武田豊が円高不況時に語った「もはや“鉄は国家”ではない」1986年11月8日号より

 ま、これは平素からのいろんな皆さんの話から拾ってきたことで言いますとね、米国の流れというものは第2次産業的なものから第3次産業的な方向へと動いてきている。このことは、ここ10年以上の統計からもはっきり出てますねえ。

 あれは一体何からきたのか、という問題ね。この辺が基本問題だと思うんだが、率直に言うとね、米国の経営者あるいは大株主の経営観念は短期間で収益を上げるということなんで、いわゆるマニュファクチャリングの、汗水流して、そして収益が即効的に上がらない、数年かけないと上がらないような装置産業的な、2次産業に対する興味が薄らいでいる。

 従って、そのうちのワンオブゼムである鉄の産業なんてのも落ちてきている。で、鉄会社も売却してもうけるとか、いろんなことが出てきている。

――10月のIISI(世界鉄鋼協会)の総会でUSX(現USスチール)のロドリック会長に会われましたか。