不朽_永野重雄富士製鉄社長
 2019年4月1日、新日鐵住金は日本製鉄に社名を変更した。同社は粗鋼生産量で国内トップ、世界でも第3位の規模を持つ鉄鋼メーカーだが、この社名変更には、日本発祥の製鉄会社であることをグローバル市場でアピールする意志が込められた。一方で、同社の戦前戦後を通じた再編の歴史を知っている者には、 “先祖返り”した印象も与えたはずだ。

「鉄」を旧字で書く日本製鐵といえば、1934年に官営八幡製鉄所と民間製鉄メーカー7社が大合同して誕生した、国策の製鉄会社である。戦後、日本製鐵は過度経済力集中排除法による財閥解体で、八幡製鉄、富士製鉄、日鐵汽船、播磨耐火煉瓦の4社に分割された。

 そして70年、八幡製鉄、富士製鉄が再び合併、新日本製鐵(新日鐵)として生まれ変わる。さらに2012年に住友金属工業と合併し、社名を新日鐵住金に改めるが、このたび86年前の社名をほうふつとさせる日本製鉄として新たなスタートを切ったというわけだ。ちなみに日本製鉄と日本製鐵は、鉄の字体だけでなく、前者は「にっぽん」、後者は「にほん」と読み方も違う。

 今回紹介するのは、「週刊ダイヤモンド」1967年11月6日号に掲載された、富士製鉄社長の永野重雄(1900年7月15日~1984年5月4日)のインタビューだ。永野は、日本製鐵の誕生時、民間7社の一つ、富士製鋼で支配人を務めており、大合同をじかに体験した人物である。記事では合同前後の模様を、極めて詳細に語っている。

 ここから3年後、前述のように八幡製鉄と富士製鉄が合併し、新日鐵が誕生するわけだが、永野はその大合併を中心となって率いた。新日鐵では会長に就任。さらには自ら設立にも関わった経済同友会の代表幹事や、日本商工会議所会頭なども務め、長く財界のリーダーとしても活躍した。「孤高に陥らず、孤高を恐れず」を座右の銘に生きた、永野の生き様は自著「わが財界人生」(ダイヤモンド社刊)に詳しいが、まさに昭和の日本経済を牽引したスター経営者の1人である。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

渋沢栄一さんから
「おまえ、これを勉強しておけ」

1967年11月6日号
1967年11月6日号より

 日本製鐵大合同の経緯は古い。

 1901(明治34)年に、官営八幡製鉄所が発足した直後から、鉄のような基幹産業は、一つの大きな総合体として経営、育成した方がいいという話が出ていた。

 なにしろ、鉄鋼業というのは、非常に大きな資本を使う。それに、鉄が伸びなければ、船も機械も車両も伸びない。また、軍需目的にもそういう必要がある。

 それやこれやで、政府はいろいろな委員会を設けて、古くから大合同の研究を進めてきた。