不朽#岡橋林

 岡橋林(1883年12月15日~1959年11月24日)は、1906年に住友銀行に入行し、下関、名古屋、東京支店長などを経て、41年に社長に就任。住友財閥の多くの企業の取締役も兼ね、関西経済連合会常任理事も務めたが、終戦の45年に辞任・公職追放となる。追放解除後の53年には吉田茂内閣の経済最高顧問、続く鳩山一郎内閣でも内閣経済懇談会の会員などの要職を務めた。

「ダイヤモンド」1955年3月5日号に掲載されたインタビューで、岡橋は40年に及んだ“住友人生”を振り返っている。

 住友は、三井、三菱と共に、言わずと知れた日本の三大財閥グループの一角。住友は蘇我理右衛門が1590年に創業し、理右衛門の義弟である住友政友を家祖とする。また、三井は三井高利が1673年に、三菱は岩崎弥太郎が1870年にそれぞれ創業し、長い歴史を誇る。厳格な組織序列を持つ官僚的な「組織の三菱」、個人の創造性を重んじる「人の三井」に対し、創業家を象徴として傘下企業のトップが集団指導体制を構築する「結束の住友」といわれる。この住友の社風は、戦後の財閥解体を経て、各財閥が創業一族による支配から企業グループとして組織形態を変えていく中、さらに磨かれていった。

 岡橋が住友に入社した当時の住友家15代当主、住友友純について岡橋は「住友の最高人事は、自分が適当だと思う人によって、内閣を組織する。その人々が責任を持って政治をやるのだ、と言われて、自分から積極的に意見を言われることがなかった」と振り返っている。「自分には到底できないから、下の者に任すというのではなくて、できる力を持っていながら、他人に任せて責任政治を確立した人です」。

 そして、友純の息子でインタビュー当時の住友家当主である住友友成について、岡橋は「藤沢の近くに……」と話しているが、これは横浜市戸塚区にある住友家俣野別邸のこと。友成はアララギ派の歌人でもあり、財閥解体で住友本社社長を辞した後は、この別邸で専ら歌道に親しんだという。創業家が実際の経営にはほとんど関与せず、“番頭経営”に徹していた様子がよく分かる。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

住友精神とは
英国流ジェントルマンの気持ち

1955年3月5日1955年3月5日号より

――早速ですが、学校を出られますと、すぐ住友銀行に入られたわけで、それからずっと銀行一本やりで。

 ええ、40年やっておりますよ。ハハ……。

――住友の気風と申しますか、住友精神といったものを一つ。

 小倉(正恒:第6代住友総理事)先輩が、かつて「ダイヤモンド」誌に話しておられるが、まあ極めて平凡なことです。いわゆる英国流のジェントルマンの気持ちでやるということですが、とにかく、事業というものは、社会と共に進み、国家と共に栄えてゆく。金さえもうかればいいというものじゃない。

 そして信用を重んじ、堅実を旨とし、いやしくも不純は追わん、というのが根本の精神です。

――その住友精神は今も受け継がれているわけで……。

 一時、終戦後は多少とも気持ちの動揺があったようだが、近来はおかげでまた昔の住友に立ち返りつつある。これは僕らが手前みそを並べるより、周囲から聞いていただいた方がいいと思うけれど。

――かつて住友傘下にあった諸会社が、それぞれ元の住友の名に返って、お互い横の連絡を緊密にしつつあるそうですが。昔のような一貫した縦の統制はないにしても。

 まだそこまでいかんだろうけれど、僕はこういう表現をしている。

「親がなくなったからといって兄弟がバラバラにならなければならぬという理由はない。兄弟仲良く、力を合わせて発展してゆくことは、少しも差し支えないし、むしろ当然じゃないか」と。これは元の財閥が復興するとか、なんとかいう意味じゃないのです。

 ご承知のように住友家の持っておった資産は財産税に取られるし有価証券は整理委員会に出してしまうし、全く力を失ってしまった。だから、まだ財閥が復興するという実力は住友家にはない。それだからといって、兄弟がバラバラになったり、争ったりすることはないと思う。

 こういうことを私は始終言っておるわけです。

――財閥の中でも、三井には三井らしい気風があり、三菱には三井と違った社風がありました。また住友にも三井、三菱と違った伝統があって、特に住友には重厚な気風のあることを印象づけられているのですが。