火の発見とエネルギー革命、歴史を変えたビール・ワイン・蒸留酒、金・銀への欲望が世界をグローバル化した、石油に浮かぶ文明、ドラッグの魔力、化学兵器と核兵器…。化学は人類を大きく動かしている――。白熱のサイエンスエンターテイメント『世界史は化学でできている』は、朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞夕刊、読売新聞夕刊と書評が相次ぎ、発売たちまち7万部を突破した。
池谷裕二氏(脳研究者、東京大学教授)「こんなに楽しい化学の本は初めてだ。スケールが大きいのにとても身近。現実的だけど神秘的。文理が融合された多面的な“化学”に魅了されっぱなしだ」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。好評連載のバックナンバーはこちらから。
人類とタバコの関わり
タバコの乾燥葉には、ニコチンが二~八パーセント程度ふくまれている。ニコチンはアルカロイドの一種で猛烈な神経毒性を持つ。ニコチン性アセチルコリン受容体を介して、その薬理作用により毛細血管を収縮、血圧を上昇させ、縮瞳、悪心、嘔吐、下痢などを引き起こす。また、頭痛・心臓障害・不眠などの中毒症状、過量投与では嘔吐、意識障害、けいれんを起こすのだ。
ニコチンの急性致死量は、乳幼児で一〇~二〇ミリグラム(タバコ〇・五~一本)、成人では四〇~六〇ミリグラム(二~三本)と毒性が強い。とくに、乳幼児のタバコの誤食が多いので要注意である。
人類がタバコをいつ頃から吸い始めたかはわかっていないが、火を使い始めてさまざまな植物を燃やしたときに、なかには吸うと心地よい香りの煙(香煙)を出す植物があることを知ったのだろう。
香を焚いて得る香煙は、人間に清新な活力や気力をもたらすばかりか、神の精霊が宿ると信じられ、これは世界各国に共通して見られる現象だ。香を焚くことは、宗教的行事として重要な儀礼であるとともに、幻想的精神作用を起こすことから呪術にも必要とされた。さらに病気治療にも使われてきた。つまり、タバコを吸う前に、香煙を吸うことが行われていたのである。
タバコは、紀元前から南アメリカ、中央アメリカの南部、西インド諸島、北アメリカのミシシッピ川流域にまで栽培されていた。多くの文献が取り上げているのがマヤ文明の遺跡にある石彫り(レリーフ)の絵文書だ。マヤ文明は紀元前三〇〇〇年から十六世紀頃まで、メキシコ南東部、グアテマラ、ベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明である。
その絵文書は、神がチューブ状のものを口にくわえ、先端から煙を吹かしている姿を表現している。当時の人々がタバコを用いていて、そのことを神もお気に召していると考えていたのだろう。
コロンブスとタバコ
マヤ文明では太陽神が崇拝されていた。太陽=火の玉という連想から、火や煙が神聖視された。タバコは香煙を出し、それを吸うといい気持ちになることから、タバコの煙に火の神の霊が存在していると信じられて、大切にされてきたのである。
一四九二年十月十三日、クリストファー・コロンブス一行は「新世界」における最初の上陸地サン・サルバドル島で、島の住民に与えたガラス玉、鏡などの贈り物の返礼として、新鮮な野菜とともに強い芳香のある葉を受け取った。この葉こそタバコの葉である。
島の住民はこの葉を「タバコ」と呼んでいた。彼らは、タバコを神聖な儀式に用いただけでなく、多くの病気の治療に用いていた。外傷、咳、歯痛、梅毒、リウマチ、寄生虫、発熱、しゃっくり、ぜんそく、しもやけ、へんとう炎、胃病、頭痛、鼻かぜなどの薬としていたという。
タバコはスペインに伝えられ、以後ポルトガル、フランス、イギリスに広がり、人々を魅了し、喫煙の風習は急速な勢いで広まった。
一五五九年、リスボン駐在のフランス大使ジャン・ニコー(一五三〇~一六〇四)が、フランス王国のフランソワ二世と母后カトリーヌ・ド・メディチに医薬用目的としてタバコの乾燥葉を献上した。カトリーヌはこれを頭痛薬用の粉タバコにして愛用した。そのため当初、タバコは「王妃の薬草」と呼ばれていたが、後にフランスにタバコを移入したジャン・ニコーを記念してニコティアーヌ(ニコチン)と呼ばれるようになる(ニコチンの名の由来)。
タバコ規制とピューリタン革命
エリザベス一世の跡を受けて国王となったジェームズ一世はイギリス王に即位した翌年の一六〇四年に、「タバコへの挑戦」と題する文を出して、喫煙は野蛮人の悪しき風習であると非難。タバコの輸入に約四〇倍の高関税を課し、かつ、タバコ販売を専売にし、イギリス国内のタバコの栽培を禁止した。
ジェームズ一世の跡を継いだチャールズ一世もタバコの専売を強化し、しばしば喫煙を取り締まった。こうして国王とタバコの取り締まりに反対した議会、議会を支持する国民との対立はエスカレートして、ついには一六四二年から始まるピューリタン革命へと発展していった。
この革命の成功で喫煙は自由になり、一気に国民のあいだに広まった。世界史は高邁な理想によってのみ発展するのではない。このように人間の「欲望」も背景にあることを覚えておきたいものである。
一六六五年、イギリスでペストが流行したが、その頃フランスから伝えられた嗅ぎタバコがペストの予防に効くとされて大流行した。この頃、流行したコーヒーとともにタバコはイギリス市民の社交上なくてはならないものになっていった。
江戸幕府の「きせる狩り」
日本にはポルトガルの宣教師がタバコを伝えた。一説には一五四三年、種子島に漂着したポルトガル船が鉄砲と一緒に伝えたともいわれている。
江戸幕府は一六〇九年喫煙禁止令を出し、いわゆる「きせる狩り」などを行った。これは幕府のぜいたく禁止政策と火災防止のためであったが、とうてい禁止することはできず、広く庶民のあいだにまで広まっていった。日本では日清戦争後、政府は財源確保のため、葉タバコの専売を実施し、日露戦争の最中(一九〇四)に完全な専売制に移行して今日に至っている。
なお、タバコの煙にふくまれる化学物質は約三〇〇〇種類あり、そのうち有害物質は二〇〇~三〇〇種類、とくに有害なのがタール、ニコチン、一酸化炭素などである。
常用すると生じる依存性は、ニコチンによりドーパミン中枢神経系の興奮(脱抑制)を介するものである。喫煙によって肺ガンにかかったとされる人の割合は、日本では約七〇パーセント、アメリカやイギリスなどでは八〇~九〇パーセントとされている。
タバコの害は五〇種類にも及ぶとされている。内訳としては、がん(肺がん、咽頭がんなど一〇種)、循環器疾患(血管収縮、心筋梗塞、狭心症、脳卒中など)、消化器系(胃潰瘍、十二指腸潰瘍、食欲低下など)、その他、虫歯、歯周病、妊娠合併症、ビタミンCの破壊、免疫機能の低下、善玉コレステロールの減少、運動機能の低下、知的能力の低下、寿命の短縮、タバコ代による経済的消失などがあげられるのだ。
(※本原稿は『世界史は化学でできている』からの抜粋です)
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東京大学非常勤講師
元法政大学生命科学部環境応用化学科教授
『理科の探検(RikaTan)』編集長。専門は理科教育、科学コミュニケーション。一九四九年生まれ。千葉大学教育学部理科専攻(物理化学研究室)を卒業後、東京学芸大学大学院教育学研究科理科教育専攻(物理化学講座)を修了。中学校理科教科書(新しい科学)編集委員・執筆者。大学で教鞭を執りつつ、精力的に理科教室や講演会の講師を務める。おもな著書に、『面白くて眠れなくなる化学』(PHP)、『よくわかる元素図鑑』(田中陵二氏との共著、PHP)、『新しい高校化学の教科書』(講談社ブルーバックス)などがある。