日本に流通革命を巻き起こした“風雲児”、ダイエー創業者の中内功(功は〈たくみへん〉に刀」:1922年8月2日~2005年9月19日)の、「週刊ダイヤモンド」1982年7月10日号に掲載されたインタビューである。1人当たり実質国民総生産(GNP)が戦前の水準を再び超え、経済白書に「もはや戦後ではない」と記述されたのは56年。その翌年に開店した「主婦の店ダイエー」も四半世紀という年月を重ね、すでに売り上げは1兆円を超え、隆盛を極めていた。
中内は、翌月に60歳を迎えるというタイミングだったが、「私は大器じゃないけれども晩成型ですから」と断りつつ、120歳まで生きると豪語している。太平洋戦争でフィリピンに出征し、生死の境をさまよった経験を持つ中内は、「われわれの青春は、お国のためにだいぶ空費したわけです、太平洋戦争で。その分を返してもらわんとね」と、むしろこれからが青春時代だと意気軒昂である。
インタビューの“肝”は、当時の時代の捉え方。英国中心の「パックス・ブリタニカ」から、米国の時代「パックス・アメリカーナ」が来たが、これが「パックス・パシフィカ」と呼ぶべき環太平洋時代に移りつつある。環太平洋には米国も含まれるが、日本が自由主義経済を支える中心的存在になると語っている。そんな時代の到来を予感しながら迎えた“還暦”は、あくまで人生の折り返し点にすぎないというわけだ。
しかし、「西暦2000年になったとき、お客さまが何を期待されるか、どういうニーズを持っておられるかに対して適応していくのがわれわれの仕事です。お客さまも変われば、われわれも変わるということです」という言葉もむなしく、90年代後半のダイエーは危機的状況に陥る。バブル崩壊による地価下落がもたらした不動産の含み損が財務をむしばみ、さらに業態転換の遅れから事業不振も引き起こし、21世紀を迎えたばかりの2001年1月30日、中内はダイエーの取締役を辞任、経営から完全に身を引くことになった。亡くなったのはそれから4年後の05年。83歳の生涯だった。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
まだ青春時代の真っ最中
120歳まで生きますよ
――前にお会いしたのは、流通科学大学の設立を発表されたときでした。あのとき、髪は黒かったのですが、すっかり白くなりましたね。
染めとったんです。私は40代から頭は白かったんです。だけれども、あまりオジンくさいのは良くない。若さと美貌で売り出しとったですから。でもいまは年齢相応に、ナチュラルにやっています。
――それは、いつからですか。
もう1年ほどになりますかね。染めるのに30分ぐらいかかるでしょう。いったん旅行中に染めなくなってから、そのままナチュラルにしている。若い女の子に会うても白髪の方がいい、ロマンスグレーの方がいいと、皆さんに仰っていただくので転向したんです。
――皆さんが言ったから?何か心境の変化があったんじゃありませんか。
いや、そんなことないです。私は皆さんの声をいつも聞いている方ですから。
――今年は60歳だそうですね。
そうです。8月2日です。
――人間は60歳になると、いろいろ人生を考えるものだそうですね。
120までは生きんといかんと思っとるんですわ。120までというと、60というのは、マラソンで言えば、ちょうど折り返し点ですな。
――それは強がりでしょう。
そんなことありません。自然にそう思ってますわ。
――しかし、人生というのは、かなりずうずうしい人でも、50年と言っていましたよ。
それは昔や。織田信長が「人生わずか50年」と言うたのね。だけど、それは織田信長の時代であって、いまは人間の平均年齢はますます伸びていくわけですから。いまは七十何歳でしょう。それは死んだ人を入れての計算ですからね。生き残っとるのからいくと、もっと伸びるはずですわ。だんだんと医学も進歩しますから、120まで生きて普通なわけなんですよ。