SNSに代表される現代の人間関係において、「共感がかつてないほどに重要なキーワードとなっている」と言われて異論がある人は少ないだろう。しかし共感は主観的なものであり、非常に捉えづらいものである(もちろん「いいね!」の数で測れるものでもない)。スタンフォード大学の共感研究における新進気鋭の心理学者として知られるジャミール・ザキは、「共感力は生まれたときから固定の才能ではなく、意識的に伸ばすことのできるスキル」と位置づけ、画期的な研究成果をあげている。今回、ザキが専門書ではなく、一般の読者にも広く共感について知見を深めてもらうための本としてまとめたのが『スタンフォード大学の共感の授業――人生を変える「思いやる力」の研究』だ。同書には、アンジェラ・ダックワース(『やり抜く力』)アダム・グラント(『Give & Take』)、キャロル・ドウェック(『マインドセット』)をはじめとするビッグネームからの賛辞が寄せられ、あいまいな共感をめぐる議論に一石を投じる本として世界中から絶賛の声が寄せられている。注目のこの本から、差別や紛争のような現代の大きな課題に共感力どうかかわるかという心理学的研究について紹介する。
紛争を心理学で解決できるか
取り組んでいるのは、MITの認知神経科学者エミール・ブリュノーだ。接触の科学を追究する新たな第一人者である。ブリュノーは以前から、他人が世界をどう見ているか理解したいと考えていた。理由のひとつは、彼自身の母親を理解できなかったことだ。母親、リンダ・ブリュノーは、エミールを出産した少しあとから、罵りの声を聞くようになった。
頭上を飛ぶ飛行機の音も、テレビから流れる音声も、悪口雑言として耳に入ってくる。まったく何の音もしないときでも声が聞こえていた。彼女にとって、その声はうるさくて、明瞭で、本物の声と同等にリアルだった。統合失調症だったのだ。エミールが成長するにつれて、母の症状は悪化の一途をたどった。
エミール・ブリュノーは、母の頭の中を知りたいという思いから、神経科学の世界に足を踏み入れた。そこで出会った研究に衝撃を受けたという。神経科学者が総合失調症患者の脳をスキャンするという研究だ。装置の中にいる患者は、「声」が聞こえたら、そのたびにボタンを押す。研究者は、その幻聴が脳内のどこで起きているか確認する。
すると、患者が想像上の声を聞いているときに活動している脳の領域と、本当の音に反応する脳の領域は、同じであることがわかった。どうやら生物学的には、幻聴は本物と区別されていないのだ。ブリュノーにとって、これは罪からの放免だった。人が統合失調症になるのは家族のせいだ、という見解を幼い頃に聞かされていたので、ブリュノーはそのことで苦しんでいた。でも、そうではない。まったく違う見方が出てきた。
「あれは身体的なコンディションだったのだと知りました(……)そうであれば、ぐっと扱いやすくなります。大変であることは変わりないけれど、きっと対処できることもあるはずです」
ブリュノーはこれまで世界各地を旅して、暴力によって分断された地域にも数多く足を踏み入れてきた。アパルトヘイト廃止直後の南アフリカで数ヵ月ほど暮らしたことがある。スリランカにいるジャーナリストの友人ふたりを訪ねて現地入りした数時間後に、タミル人のテロ組織「タミル・タイガー」がスリランカの都市コロンボを襲撃したという体験もしている。
こうした紛争は、どれも一つひとつ背景や経緯が異なっていたが、共通する問題もいくつか存在していた。何より重大な特徴は、本来ならば善良な人々が、紛争の影響を受けて大きく変質してしまうことだ。南アフリカでブリュノーがツーリングに出たとき、森で道に迷い、空腹であざだらけで何とか脱出したところを見知らぬ老婦人から介抱を受けたことがあったという。老婦人は何も見返りを求めなかった。ところがアパルトヘイトの話題になったとたん、「彼女の口から、人種差別の罵詈雑言があふれだしてきた」。まるで二重人格だ。
紛争の影響は統合失調症の症状のようだ─とブリュノーは思った。他人から見れば幻、しかし本人にとってはリアルな世界に、心が閉じ込められてしまうのだ。統合失調症が脳の病気なのだとしたら、集団間の紛争も、同じように脳にダメージを与えているのではないか。もしもそれが身体的なコンディションなのだとすれば、治療も可能なはずではないか。
ブリュノーはこの仮説を検証するため、北アイルランドのベルファストという土地に赴いて、カトリックとプロテスタントの青少年に3週間の共同生活をさせる接触推進プログラムにボランティアとして参加した。
「参加者は全員、大きな体育館で寝泊まりして、一緒に壁画を制作したり、音楽を演奏したりします。でも、このプログラムは大失敗でした」
少年たちは3週間のキャンプ生活を仲よく過ごしていた。ところが最終日に少年ふたりのあいだで小競り合いが起きると、それがあっというまに全体に広がって、カトリック対プロテスタントの喧嘩が始まったのだ。1時間前まで一緒に遊んでいた少年たちが、ほんの数秒のうちに、敵対するアイデンティティに戻ってしまった。ブリュノーは喧嘩に割って入ったが、そのときひとりの少年が相手に向かって「このオレンジ野郎!」と叫ぶのが耳に入ってきた。
17世紀にイングランド王となったオランダ総督オラニエ公ウィレム3世のことだ〔プロテスタントのウィレム3世が、アイルランドのカトリック軍を鎮圧し征服したことが、アイルランドの宗教対立を深めた。オラニエと読むのはオランダ語で、英語ではオレンジ公ウィリアムとなる〕。
「数世紀も前の人名が罵りの言葉になるんですよ。『なんてことだ、これは根が深い』と思いました」
ブリュノーにとってはほかにも気になることがあった。衝突の解消のためだからといって、強引に接触させるだけでいいのか。接触推進プログラムの多くは、とにかく一緒にたくさんの活動や話し合いをさせればそれでいい、というやり方になっていた。いつ、どんなふうに接触を活用し、その効果をどうすれば最大限に引き出せるか特定するためには、もっと緻密なアプローチが必要なのではないか。「接触推進プログラムの効果を出すには何が重要なのか。人はどんなふうに触れあうのか。どんなタイプの人に、どんな介入をすれば、一番うまくいくのか」。単純な疑問のようだが、先行研究では答えが出ていなかった。
ブリュノーは自分の研究でこうした問いの答えを探している。何年もかけて、紛争が共感力を弱める様子を研究し、平和構築を目指すさまざまな団体と連携しながら、接触が有効となる方法や場面を探っている。ブリュノー自身が平和推進活動を一から立ち上げることはしていない。長年活動している団体は、その紛争について、ブリュノーにはとうてい追いつけないほどの知識があるからだ。彼はあくまで既存の団体が使っている形式を借り、彼らが作る素材を検証して、どの手法が一番うまくいくか調べている。
「公平な施策」がむしろ差別をつのらせてしまう理由
こうした研究で導かれる答えが、それまでの通念とは正反対になることもある。接触仮説を提示した心理学者ゴードン・オルポートは、たとえ片方の集団のほうが裕福だったり、権力が強かったりしたとしても、集団同士を平等なステイタスにすることで接触効果が最大限に表れると考えていた。ほとんどの紛争解決プログラムはこの原則を守っており、たとえばイスラエル人とパレスチナ人の参加者に、討論で同等の発言時間を与えることを重視する。お互いに相手の話をしっかり聞き、相手の視点を理解するよう促す。
確かに、こうした話し合いの場をもつと、マジョリティに属する人々や、ステイタスの高い集団の人々は、討論が終わる頃には相手に対して以前よりやさしい視点をもっていることが多い。ところがマイノリティの人々や、権力をもたない人々の場合、むしろ裏目に出ることが多いのだ。彼らは討論などしなくても、マジョリティの視点を知っている。生き延びるために相手がどう思っているか知る必要があるからだ。コメディアンのサラ・シルバーマンが、インタビューの中で、この気持ちを巧みに表現していた。
「女は男の世界をよく知ってるわよ。女性の存在自体が、男性のレンズを通して決まるものだったんだから。男は、この世で生きていくために女の世界を理解しなきゃならない、なんてことはなかったでしょ」
マイノリティの人々は、「相手の視点を知る」なんてことに、もううんざりしてるんじゃないか─ブリュノーはそう考えた。だとすれば、接触プログラムは両者を平等にするのではなく、それまでの傾いたバランスを転覆することでこそ、効果が出るのではないか。片方の集団がふだんは沈黙を強いられているのだとしたら、別の集団と一緒になる場面で同等の発言機会を与えるのではなく、彼らのほうにより強い発言権を与えるべきなのだ。そして、いつもは権力をもっている側が、聞き役に徹する。マイノリティが「相手の視点を知る(視点取得)」のではなく、「相手に自分の視点を示す(視点付与)」ことができるなら、立場を底上げできるかもしれない。
ブリュノーは、この仮説を検証するため、アリゾナ州フェニックスの公立図書館でワークショップを開催した。他人同士のメキシコ移民と白人のアメリカ人とをペアにする。そして各ペアの片方が「話し手」になり、自分たちの苦難について短いエッセイを書く。ペアのもう片方は「聞き手」になって、エッセイを読み、要約し、感想を書き手に伝える。それからお互いに相手についてどう思っているか、相手の民族集団についてどう思っているか、口に出して話しあう。
白人アメリカ人の参加者は、この接触において、オルポートの理論どおりに反応していた。彼らは「聞き手」の役割を果たしたあと、メキシコ移民に対して、よい印象をもつようになった。ところがメキシコ移民が「聞き手」になったときは、自分よりリッチで、自分より力をもった集団の人間が苦労について話すのを聞いて、むしろ憎しみをつのらせた。彼らが白人に好印象を抱いたのは、自分が「話し手」となって、白人に話を聞かせた場合だ。
ブリュノーはこれと同じ実験を、ヨルダン川西岸地区の都市ラマラとイスラエルの都市テル・アビブで実施して、パレスチナ人とイスラエル人にビデオ通話で対話をさせた。イスラエル人は白人アメリカ人と同じく、パレスチナ人の苦労を聞いて、パレスチナ人への好印象を抱いた。ところがパレスチナ人は、相手の話を聞くときではなく、自分の話を聞いてもらったときに、イスラエル人に対する好印象を強めていた。接触が吉と出るのは、既存の傾いたパワーバランスをなかったことにする場合ではなく、既存のバランスをひっくり返す場合だったのだ。
ブリュノーは世界各地のヘイトについて研究してきたが、最近では母国に視点を置き、アメリカにおける白人ナショナリズムの高まりに注目している。いわゆる「オルタナ右翼」と呼ばれる層が昨今ではかなり存在感を増し、以前よりもあからさまにヘイトを示すようになった〔オルタナ右翼とは、ネットを中心に活動する過激な保守派のこと。徹底した白人至上主義で排外主義〕。
2017年8月には、オルタナ右翼がネオナチとともに、バージニア州シャーロッツヴィルで集会を開いている。シャーロッツヴィル市には、南北戦争で奴隷制維持を主張した南部連合軍の将軍ロバート・E・リーの像があった。これを撤去すると市が決定したことに対し、彼ら極右集団は抗議集会を開いたのだ。このデモが暴力に発展し、オルタナ右翼活動家のひとりが、撤去支持派の群衆に車で突っ込んだ。多数のけが人が出て、極右に抗議していたヘザー・ハイヤーという市民が命を落とした。アメリカのカレッジタウンで起きているとはとても思えない、まるでヨルダン川西岸かのような光景だった。
トニー・マカリアーは、白人至上主義団体WARでもっとも精力的に活動していた頃、共感力が退化していた。現在の白人ナショナリストたちも同様の状態だ。彼らはよそ者を非人間化している。イスラム教徒はヒトとして55%しか進化していないと考えている。他人の感情には無関心で、暴力は自分の信念を示す合理的な手段だと見ている。
こうした活動家たちに対して恐怖を抱くのは、ある意味で簡単なことだ。彼らの偏見は一生直らないと決めつけるのは、もっと簡単なことだ。しかしトニーの例は、差別意識に染まった心が人間性を取り戻すことは可能だと示している。だとすれば、その回復を促すような状況を、意図的に作ることもできるのではないだろうか。