これは、今月初旬にその解釈をめぐって物議を醸した、重症者や危険性が高いと判定された人以外は、原則自宅療養にするという政府方針の延長線上にある考え方だ。

 ワクチン接種が進み、特に医療従事者の接種がほぼ完了しているのと、ウイルスがすでに日本中にかなり蔓延し、無症状者の隔離にあまり意味がなくなったと推測されることから、限界状態にある医療資源を集中しようというわけだ。

 この考え方には一定の合理性があると思われるが、こうした当面の事態を回避するような対応には、「無策の果てに国民を見捨てるのか」といった批判が強まるのは必至だ。

 オリンピック・パラリンピックのために準備した施設を中軽症の患者の収容施設として使えばいいといった声も上がっている。

 中長期的な意味というのは、コロナの感染や被害が一定の範囲に収まったら「収束」とみなし、特別な扱いをせず、季節性インフルエンザと同等の扱いにしようということだ。

 もともと、何をもって「収束」とするかをはっきりさせておけば、休業や営業自粛要請、ワクチン接種で国民の協力も得やすくなると考えられる。

 しかし政府はこれまで具体的な数値でゴールを示そうとしてこなかった。数値を出してしまうと、「経済を回すために○○人以下だと見殺しにするのか」という批判が起こる可能性があるので、それを怖れたのだろう。

もともと国家の政策は
功利主義的性格を帯びる

 現代の政治家は、少数の人を見殺しにすると言われるのを強く怖れる。

「最大多数の最大幸福」という考え方で知られる功利主義は、多数の人の幸福のために少数派を犠牲にすることを含意しているようにも受け取られる。だから、政治家や官僚、知識人の多くは世間から功利主義者と思われることを嫌う。

「○○人の□□という大きな利益のために△△人に犠牲になってもらう方が合理的だ」と取れるような発言をしたら、徹底的にバッシングを受け、キャリアが台無しになってしまうと思うからだろう。

 しかし、ダムや堤防、廃棄物処理場などの建設にしろ、道路の拡張工事にしろ、都市の区画整備にしろ、公共事業は何らかの形で多数の住民のために少数の住民に犠牲を強いる行為だ。生活・経済環境の変化で職を失ったり、中には追いつめられ命を失ったりする人もいるかもしれない。