日本の社会には大人が不在だ

 山本一郎氏は、文春オンラインのコラム「メンタリストDaiGo炎上に見る迷惑系ユーチューバーの『ビジネスモデル』という煉獄」で、いみじくも「底辺」という言葉を用いてDaiGoの現状を言い当てた。

“文春が5年前に報じたメンタリストDaiGoと女子中学生(もちろん未成年)との性交疑惑の他にも、薬効を謳ってはいけない健康食品とタイアップして現行の薬機法違反を指摘されたり、微妙な出会い系マッチングアプリの監修を行ったり、全体的に見てメンタリストと銘打っている割には底辺の仕事をしているように見えます。そういうビジネスを手がけた結果が、自分のYouTubeで過激なことを言い、社会の荒波で自分を見失った若い人たちの気持ちをスカッとさせるような断定的な物言いで支持を集めて、不安につけこむという行為ともリンクしているのでしょうか。”

 過激化――それまでの量ではどんどん効かなくなって多量摂取のスパイラルへ、ズブズブとはまっていく事を、世間の言葉ではそう、「依存症」という。薬物と同じで、依存症の結末はオーバードーズ(過剰摂取)だ。そんな過激に過激を重ねるウェブコンテンツのベクトルは、より下へ下へと向かっていき、コンテンツを作る者、見る者の品性もろとも底辺へと堕ちていくだけなのだが、数字しか見えない当の本人たちは「これが現代を生き残るスキルだ」と、焦点の合わなくなった目で言う。

 それが、インテリタレントのDaiGoに限らず、どちらかといえば世代的には大人になって小金を持つようになった「昔お勉強のできた受験エリート」たちの層から、どうだ、俺たちって勇気があるだろう、世間の風が読めてるだろうと言わんばかりに発せられているのがネット界隈である。受験エリートの人間的脆弱(ぜいじゃく)とか、いまだに親や先生や先輩や上司に頭を押さえつけられた時代の哀しきルサンチマンなんかを思いっきり露呈していて、同じ大人世代として猛烈に悲しい限りなのである。

 数値的な評価にどっぷり浸かって育ってきて、人間としての幹が細い。大人たちに、大人らしい寛容や気高さや余裕がなく、幼稚。それは「大人のかわいげ」とかユーモアとは全く別物だ。日本の社会には大人が不在だ、と思うゆえんである。