「毒舌」と「差別やいじめ」の混同

「自分は目の前の相手を操作できる」「世間を操作できる」という自信から、やがてたどり着く「こうすれば(どうせ)みんな喜ぶんでしょ」という視線。実際に賢いDaiGoの思惑通り、世間は彼が発するコンテンツを喜んで消費し、知ってか知らずか絶えずチャリンチャリンと小銭をお布施し続け、彼のための数字を順当に積み上げてきた。人格を疑われる発言で炎上し、こっぴどく叱られてさえ、問題となった彼の動画チャンネルにはアクセスが集まり、新聞もテレビもネットニュースもラジオも彼の話題で賑わう。

 謝らないなら謝らないで、謝ったら謝ったでみんなが見に行き、SNSで彼の話をする。一言で言えば炎上商法だが、結果的に「DaiGoが何をどうやっても結局DaiGo本人を潤わせる、よくできたエコシステム」に、「人は思ったように操作できる」との彼の説は証明され、強化されるだけだから悲しい。そしてこれはDaiGoが一番成功しているから矢面に立ってしまったわけで、こうしたエコシステムを構築して挑発的に炎上させては小金を稼ぐ、ネット上の偽DaiGoやミニDaiGoは男女問わずいろいろいるのだ。

『ワイドナショー』で松本人志が「一回、こういうことがあった人のYouTubeは無視したほうがいいと思ってるけどね」とコメントした通り、どこかでその麻薬的なサイクルを断ち切らないと、アクセス数が収入に直結するネットのルールでは、より「強くて新しい刺激」「多くの収益機会」を求めて、ネットの中の言説やコンテンツはただ過激化する一方なのである。

 2010年代から顕著となった、毒舌や辛口、ぶっちゃけトークなどを喜ぶ風潮は、本来の「真実を言い当てる」や「歯に衣着せぬ、率直な物言い」のあり方とは正反対の方向性にある。

 権力を持つ強者に向けて、相対的に低い立場からその行いを辛辣(しんらつ)に皮肉るのが、メディアにおける「歯に衣着せぬ、率直な物言い」のあるべき姿であり、隠され見えなくされているものを暴くのが「真実を言い当てる」ということだ。

 その力学が逆転し、相対的優位にある強者が「世間的に言ってはいけない事をあえて俺は言うよ」と公然とイキってみせる、現代のネット的「激辛」は、まともな批評でもなければ意見ですらなく、浅慮ないじめと同じ構造であることに気づけない。弱者を「お前って弱者だよな」「俺は弱者には弱者って言うよ」と馬鹿にし、挑発して笑うことに、なんらの文化的意義もジャーナリズムもないだろう。

 プロのお笑い芸人のツッコミは、事物に対する観察眼と絶妙な愛のバランスがあるからこそ面白いのだ。そういう技芸や哲学のない人間が見よう見まねで、「人として言うべきでないこと」や「誰もが(無神経でさえあったなら)口にできてしまうようなこと」を雑に言い放ってせせら笑い、「新しいことを言っている俺」「鋭くツッコんでいる俺」と悦に入る姿のことを、本当のお笑いのプロは心の中では軽蔑している……というのを、風の噂で聞いたような気がする。