真鍋淑郎プロフィールまなべ・しゅくろう/1931年、愛媛県生まれ。53年東京大学理学部地球物理学科卒、58年同大学院博士課程修了後、米国気象局に入る。67年地球温暖化のメカニズムを解明した理論を発表し、温暖化予測の先鞭をつけた。68年米国海洋大気庁(NOAA)地球流体力学研究所 上席気象研究員兼プリンストン大学客員教授。97年より地球フロンティア研究システム地球温暖化予測研究領域長。01年に同領域長辞任、プリンストン大学上席研究員に Photo:JIJI

今年のノーベル物理学賞を受賞した、米国プリンストン大学上席研究員の真鍋淑郎氏。真鍋氏は、2001年にその「異能」に注目した週刊ダイヤモンド連載「知られざる日本の『異能』たち」でジャーナリストの岸宣仁氏による3回にわたるインタビューに答えている。これらは長年にわたる米国での研究生活ののち日本に帰国し、地球フロンティア研究システム地球温暖化予測研究領域長に就いたものの、01年に辞任し米国に再度戻る寸前のタイミングでのインタビューである。その温暖化研究への熱意とそして日本の研究環境への問題意識は20年を経ても色あせない。2001年10月6日号掲載の、真鍋氏の原点とも言える肉声を再掲載する(肩書や事実関係などは記事掲載当時のまま転載しています)。

>>【上】『ノーベル賞受賞・真鍋淑郎氏が20年前に語った「温暖化問題への処方箋」』から読む
>>【中】『真鍋淑郎、「世界で最もぜいたくにコンピュータを使った男」の知られざる研究半生』から読む

「真鍋さんはこの研究所のスーパースターだった」
米研究所同僚たちが敬愛・絶賛する理由とは

 今や「気候変動研究の世界的権威」と呼ばれる真鍋淑郎博士。彼が地球温暖化予測を手がけた研究所をプリンストンに訪ね、この大きな成果を生み出せた理由と、日本との差違を探った。

 ニューヨークからクルマで約1時間半走ると、プリンストン大学の広大なキャンパスが広がる。メインキャンパスからは少し離れ、雑木林に囲まれた閑静な住宅街を思わせる一角に、米国海洋大気庁(NOAA)地球流体力学研究所(Geophysical Fluid Dynamics Laboratory=GFDL)の建物がある。ここが長年地球温暖化の予測に精魂を傾けた、真鍋淑郎・地球フロンティア研究システム地球温暖化予測研究領域長の研究拠点となった場所である。

 すでに真鍋がここを去り、日本に頭脳還流して4年の歳月が流れたが、研究所内のあちこちに真鍋の『痕跡』が認められた。

 ある部屋には、真鍋の写真入りのポスターが剥がさずに貼ってあった。1998年3月、真鍋の40年間の業績を記念してプリンストン大学で開かれたシンポジウムの時のものである。

 シンポジウムでは、地球温暖化論争の火付け役になった米航空宇宙局(NASA)のジェームズ・ハンセン博士や、過去の気候変動研究で独自の説を次々に打ち出しているウォリス・ブロッカー・コロンビア大学教授などが講演した。さらに国連の気候変動政府間パネル(IPCC)の主要な科学者メンバーをはじめ、欧米の第一線の研究者が多数参加し、気候変動の予測や影響について活発な議論を繰り広げた。

 また、ある部屋――そこは真鍋が沈思黙考する際にこっそり隠れるように入った小部屋なのだが――は、現在、後任のアイザック・ヘルド上席研究員が使っている。しかし、棚に置かれた書籍などはヘルドの私物だが、いつ真鍋がここに帰ってきてもいいように、机も椅子も世界地図も彼が勤務していた当時のままに残されていた。

 この主なき建物を訪問し、後輩たちに真鍋の思い出話を尋ねたが、だれもが兄を慕うように懐かしさを込めて語るのが印象に残った。その一人、GFDL前所長のジェリー・マールマンは、「真鍋さんはこの研究所でスーパースターの一人だった」と最大級の賛辞を贈り、彼との出会いから話を始めた。

「真鍋さんが67年に発表した温暖化予測の論文を、大学院生のころに読んでたいへん興奮したのを覚えている。それまで使われていなかった数学的モデルを巧みに利用して計算し、専門家でなくても分かるように書かれた画期的な論文だった。地球温暖化予測の基礎的な研究であり、『温室効果』を世界に知らしめた最初の論文でもあった」

 マールマンはカリフォルニア州にある海軍大学で、終身在職権のある助教授のポストを約束されていたが、真鍋の強い誘いを受けてGFDLに移る決心をした。成層圏研究の専門家だったマールマンの論文が真鍋の目にとまり、ジョセフ・スマゴリンスキー所長(当時)に「ぜひ、スカウトしたい」と頼み込んだいきさつがある。

「真鍋さんは私の兄のような存在」と言ってはばからないマールマンは、共に研究生活を送るなかで見聞した真鍋の『実像』をこう語っている。