今年のノーベル物理学賞を受賞した、米国プリンストン大学上席研究員の真鍋淑郎氏。真鍋氏は、2001年にその「異能」に注目した週刊ダイヤモンド連載「知られざる日本の『異能』たち」でジャーナリストの岸宣仁氏による3回にわたるインタビューに答えている。これらは長年にわたる米国での研究生活ののち日本に帰国し、地球フロンティア研究システム地球温暖化予測研究領域長に就いたものの、01年に辞任し米国に再度戻る寸前のタイミングでのインタビューである。その温暖化研究への熱意とそして日本の研究環境への問題意識は20年を経ても色あせない。2001年9月29日号掲載の、真鍋氏の原点とも言える肉声を再掲載する(肩書や事実関係などは記事掲載当時のまま転載しています)。
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戦後の就職難で渡米、最高の上司と研究環境との出会いで
1~2年の滞在予定が40年に延びた
「世界で最もぜいたくにコンピュータを使った男」――地球フロンティア研究システムの真鍋淑郎・地球温暖化予測研究領域長の研究者人生を振り返るとき、これほど的を射た表現はほかに見当たらない。
大ざっぱな計算だが、40年間の滞米生活で気象研究のために使った研究費はざっと150億円。このうち約半分をスーパーコンピュータの使用料が占め、年間当り平均で2億円近くをコンピュータ代に使ってきた勘定になる。これだけ膨大な資金を、日本からやってきた一人の気象学者に注ぎ込むアメリカの研究体制――真鍋はつくづく、この国の持つ多様性というか、懐の深さを痛感せずにはいられない。
愛媛県新宮村に生まれた真鍋は代々医者の家系に育った。祖父も父も兄も医者という家庭環境のなかで、当然自分も医者になるものと小さいころから思い込んでいた。旧制三島中学(現県立三島高校)4年修了時に大阪市立医大に合格し、入学手続きをとって医者になるための勉強をスタートした。
ところが、どうもこの世界が自分の性分に合わないことに気づき始めた。まず日本の医学教育が暗記中心の学問であることに幻滅を感じた。それに医者は緊急事態に対して冷静で的確な判断を求められるが、そういう状況になればなるほど平静でいられなくなる自分を意識した。
本人の言葉を借りれば、「記憶力は悪いし手先は不器用だし、いざとなると頭にカッと血が上って何をしていいかわからなくなる性分」が、入学早々から心の内で医者への道を断念させていた。ほとんど「腰掛け状態」だった医大生活の1年後、たまたま大学が旧制から新制に切り替わる時期に当たり、この機会をとらえて自分に合った学問の分野に進路変更しようと決心した。
「とにかく自分の性格から考えて、時間を十分にかけ、じっくり問題に取り組める研究者の道が一番合っていると思った。データに基づいて自然現象の謎を解くことには子どものころから興味があり、これらの条件を満たせるのは物理学の世界ではないかと考えた」
新制に替わった東京大学の試験に受かり、1949年春、第一期生として入学した。その際の喜びとは裏腹に、真鍋が有能な医者になることだけを楽しみにしていた父親のがっかりした顔が、脳裏に残っていまだに忘れることができないという。
専門課程に進む際、真鍋には理論物理学に進むか、地球物理学に進むか二つの選択肢があった。東大に入学した年、湯川秀樹博士が日本人初のノーベル物理学賞に輝き、理論物理学が脚光を浴びている時期でもあった。しかし、「数学のできる優秀な人でないと理論物理学は無理」とあきらめて、地球物理学を最終的な専攻科目に選んだ。