三菱グループの枠組みを、岩崎弥太郎の弟・弥之助が作ったと言える理由岩崎弥太郎生家 Photo:PIXTA

「最後の財閥」「最後の企業集団」と言われる三菱。創業者・岩崎弥太郎の娘や姪と結婚した相手は、後に政財界のトップになり、華麗なる一族となった。彼の弟・弥之助は弥太郎を支え続け、彼が今の三菱グループの枠組みを作ったのだ。
※本稿は、菊地浩之著『最強組織の実像に迫る 三菱グループの研究』(洋泉社)の一部を再編集したものです。登場する企業名などは2017年5月発行当時のものです。

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秀才の弟・弥之助に支えられた弥太郎

 岩崎弥太郎の死後、その跡を継いだのは弟の岩崎弥之助(1851~1908)だった。岩崎弥之助は、嘉永4年1月8日(西暦1851年1月29日)に弥太郎の16歳年下の弟として生まれた。

 弥之助は兄と同様に折り紙付きの秀才で、1867年(慶応3)、17歳で土佐藩校・致道館に入学。勉学の才が認められて給費生となり、扶持米を支給された。

 1869年(明治2)、弥之助は弥太郎を頼って大阪に出て、1872年(明治5)4月に米国に留学した。弥太郎は外国商館との貿易事業で出世したこともあり、欧米視察に出かけ、知見を高めようと志したが、果たせなかった。そこで、代わりに弥之助を外遊させたのだという。

 1873年(明治6)、弥太郎は三菱商会社主の座に就くと、手紙を送って弥之助に帰国を促し、腹心として活躍することを望んだ。

 弥之助は1873年11月に帰国し、ただちに三菱商会に入社した。

 翌1874年(明治7)、弥之助は後藤象二郎の長女・早苗と結婚した。弥太郎が直々に後藤に縁組みを懇請、後藤は「弥之助なら」と即座に快諾したのだという。