「最後の財閥」「最後の企業集団」と言われる三菱。戦後、GHQは財閥解体に向けて動き出し、財閥本社などの持株会社の解体を命じた。それを受けて三菱は大きく変わっていく。
※本稿は、菊地浩之著『最強組織の実像に迫る 三菱グループの研究』(洋泉社)の一部を再編集したものです。登場する企業名などは2017年5月発行当時のものです。
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本社以外に三菱商事も解散命令を受けた理由
持株会社の指定・解体は、当初は大手財閥の本社のみを想定していたらしいが、その後、対象が拡大され、三井物産や三菱重工業などのように、子会社を多く擁する事業会社も持株会社に指定された。その結果、第一次指定から第五次指定まで計83社が指定された。
三菱財閥では三菱本社以外に、1946年12月の第三次指定で三菱重工業、三菱電機、三菱鉱業(現在の三菱マテリアル)、三菱化成工業(現在の三菱ケミカル)、三菱商事の5社が持株会社に指定された。
しかし、解散命令を受けたのは三菱商事だけだった。
三菱商事は1947年7月にGHQから日本政府への覚書という形で、三井物産とともに解散命令を通知された。その内容は次の通り、重い内容だった。
(2) 許可なくして商取引や資産の譲渡を禁止。
(3) この覚書の日付以前10年の間に、役員・顧問・在内外支店支配人または部長であった者が集合して新たな会社をつくることを禁止。また、同一会社にこれらの人びとの2人以上が雇用されることを禁止。
(4) これら役職員以外でも、100名以上が同一会社に雇用されることを禁止。
(5) 今後いかなる会社も、三井物産、三菱商事の商号ならびに類似の商号を用いることを禁止。
(6) 全ての帳簿および記録の維持
総合商社は海外にはない日本固有の業態であり、GHQはその実態を持株会社と見ていたのかもしれない。事実、三井物産は多くの子会社を抱えた事業兼営持株会社だった。四大財閥の総合商社は三井物産と三菱商事だけだったこともあり(住友商事は戦後発足)、GHQは二つの総合商社を強制的に解散させたのだろう。