石原氏入会時には
既に山崎派内に亀裂

 結成当時には「鉄の結束」を誇っていた山崎派に、ひびが入り始める。

「加藤の乱」以降、無派閥だった伸晃氏が、氏家齊一郎元日本テレビ会長(11年死去)や渡邉恒雄読売新聞グループ会長の「媒酌」で山崎派に入会した07年は、このような時期である。

 元所属議員はこう振り返る。

「伸晃さんの父である石原慎太郎さんが、都知事として絶大な権力を握っていた時だったので、知名度だけでなく、金銭的にも山崎さんはアテにしていた。しかし、慎太郎さんは、経済的にプラスになるようなことは何もしてくれなかった。それなのに、伸晃さんは厚遇された」
 
 山崎氏は、08年の総裁選に伸晃氏を出馬させる。存命だった氏家会長、渡邉会長の後押しもあったからだという。だが、結成当初から山崎氏の懐刀を自称し、汗をかいていた甘利明前幹事長の心は山崎氏から離れ、麻生太郎元首相支持に回る。

 山崎氏自身も09年の選挙で落選。だが、集金力や影響力の強い山崎氏は、落選後も派閥を率いるという奇妙な構図が生まれる。12年の自民党総裁選で、石原氏が再度出馬することになると、堪忍袋の緒が切れた甘利氏ら古参の幹部が複数名、派閥を脱退。山崎氏らが密室で積極的に動き、石原氏の目前に自民党総裁の椅子は来たが、失言を重ね、再び敗れる。
 
 派閥自体は石原氏に受け継がれ、以後、「石原派」となるが、この総裁選が完全な分岐点だった。古参の社員(議員)を何人も失った上、この総裁選以降、実質オーナーの山崎氏と折り合いの悪い安倍晋三氏による長期政権が始まったからだ。

 伸晃会長に手腕や集金力が足りなかったこともあり、派閥の会合は、最高顧問となった山崎氏の事務所で相変わらず行われていた。伸晃会長の横に座る山崎氏は、いまだ実質的なオーナーを続けていたのだ。