先般も衆議院選挙があった。「日本の政治はなぜダメなのか」と悲憤梗概する人も多い。ふと疑問に思ったことがある。選挙に出る人たちの動機は何か。一体何がしたいのか。単なる家業なのか。特定の勢力の手先なのか――。
自民党、日本維新の会、野党連合の勢力図や政策について考えることも、もちろん私たちの生活にかかわる重大事もしれないが、「誰が受かって誰が落ちた」「どこが勢力を伸ばしたか」という目先のことよりも、「政治家とは何か」という本質的なことを考えることで、スキャンダルや失言などの些末な問題(もちろん犯罪行為や差別発言がどうでもいいというわけでは決してないが)に囚われ過ぎず、激動の時代を遠くまで見通すことができるのではないか。
そのためにはまず政治の仕事とは何かを知っておかねばならない。今回採り上げるのはマックス・ヴェーバーの『職業としての政治』と、アメリカの第37代大統領リチャード・ニクソンが、イギリスのチャーチル首相やフランスのド・ゴール大統領など傑出した政治家たちについて評した名著のほまれ高い『指導者とは』である。
実は後者は、前者を読むのに格好のサブテキストだと私は考えている。これらの書物を読むことで、なぜ日本では「だめな人」を政治家にしてしまうのかに得心がいき、政治家や権力者の内面も垣間見ることができ、視界が開けるに違いない。
「政治」への動機とは何か?
総選挙の喧騒を経て問い直す
『職業としての政治』では、政治とは権力闘争だと書かれている。
「政治とは、国家相互の間であれ、あるいは国家の枠の中で、つまり国家に含まれた人間集団相互の間でおこなわれる場合であれ、要するに権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である、といってよいであろう。政党間のすべての争いは本質的な目標をめぐる争いだけでなく、とりわけまた、官職任命権をめぐる争いでもある」(『職業としての政治』)
すなわち、権力とポストを巡る戦いである。では、そこに影響力を及ぼそうとしている政治家の個人的な動機は何か。この職業に携わることでどんな内的な喜びが得られるのか。