おろし金職人の岩渕辰夫さん。この道30年、大矢製作所で一番のベテランである

 大矢製作所はアパートが建ち並ぶ住宅街のなかにある。外観はごく普通の古い建物だ。外からはおろし金の工房であることはまずわからない。でも、それは訪れたのが仕事前の朝だったからかも知れない。仕事がはじまっていれば、目立ての音が聞こえるはずだ。

 目立てとはなにか? それは銅の板にタガネ(鏨)と呼ばれる道具を打ち付けていく作業だ。右手に金槌を持ち、左手には先に椿油をつけたタガネを持つ。そして、銅板の上を平行に動かしながらタガネを銅板に打ち付けるようにして、三角形の歯を立ていく。まっすぐな一列の歯ができるまであっという間だが、タガネが銅板を打つ規則的なリズムが心地よい。

 作業を見せていただいたのは、この道30年を超すベテラン岩渕辰夫さんである。27歳で工房に入り、先代の故大矢昭夫さんに師事して、現在はこの工場で一番のベテランになる。

「外国にないって知ったのは、入って10年くらい経ってからなんです。新聞かなにかではじめて知ったのかな。ああ、独特なんだって。1回、成田空港で、やたらおろし金が売れたことがあったらしいですよ。ほら、売ってないから土産ってことで」

 それにしても手作業で正確に、そして手早くタガネを打ち込んでいく作業は思わず見入ってしまう。

──誰でもこんなにまっすぐいくものなんですか?

目立ての作業。慣れない人は1回、1回タガネで打つ場所を確認するが、効率が悪いため、岩淵さんは見ないで打っている

「もちろん、いかないですよ。第一、目が立たないでしょう。慣れない人は1回、1回打つ場所を確認してやると思いますけど、そんなことしていたら効率が悪い。だから、見ないで打つんです。だけどそうするとタガネじゃなくて手を打っちゃうんですよ。そんなのが半年は続くかな。痛いのは我慢するしかない。そうやって体で覚えていくんです」

 岩渕さんはいかにも職人でやってきましたというガッチリした印象の方で、話をしてみれば気さくだが、仕事をしているときの眼光は鋭い。最近は百貨店などで実演販売をすることも多く、そのため休みは不定期だそうだ。

 おろし金の作り方を一通り教えていただいたが、実にシンプルだった。まとめると

<銅板から羽子板の形に切り取る→叩いて硬くする→錫でメッキをする→タガネで目を立てる→出来上がり>

 という工程になる。羽子板の形は江戸時代から変わっていないそうで、錫でメッキをするのは明治期あたりからだろう、ということだった。錫でメッキをするのは食材の味を変えないためだという。