第3回八重洲本大賞受賞、第40回寺田寅彦記念賞受賞の『銀河の片隅で科学夜話』(朝日出版社)。物理学者の全卓樹(ぜん・たくじゅ)氏による話題のエッセイの続編を今回、特別に書き下ろしてもらった。今年の仕事納めのあと、幻想的で美しい文章で著された「科学夜話」をゆっくり読んでみてはどうだろうか。
「間違っているのは理論ではなく
この宇宙なのではないだろうか」
大音声のバリトンが部屋中に響いた。
我々の宇宙の向こうに何があると思いますか?
私は慌てて音声のボリュームを下げた。コンピュータのスクリーンに映った、艶やかな髪が若々しい初老の紳士のにこやかな顔は確信に満ちていた。聴衆の皆が固唾を飲んで各々の画面を見つめている気配が感じられた。この講演は数日前からSNS上で炎上気味の話題になっていた。Webページの掲示にこうあったのである。
須藤靖教授講演会「マルチバース的世界観」
講演会概要:科学ではどれほど優れた理論体系であろうと、実験結果と矛盾すれば直ちに間違った理論として却下される。しかし間違っているのは理論ではなく、この宇宙なのではないだろうか――。
「理工学のフロンティア」と名付けられた高知工科大学の定期セミナーで、聴衆は大学院生中心の30名ほど、演者の須藤博士は東京大学で物理学を講ずる宇宙論の権威である。ご時世柄、演者は東京、聴衆は高知はじめ全国に散らばっての遠隔講演である。
一息置いてから、須藤博士が話し始めた。
宇宙の時空はおそらく無限に広がっているでしょう。ところが我々に見えるのは半径138億光年の球の中の部分だけです。なぜならば我々の宇宙が始まってまだそれしか時間が経っておらず、さらに遠くからの光は到達していないから。球の外についての情報は我々には皆無なのです。
しかしその138億光年の球で宇宙が終わって、その外が虚空だということがありうるでしょうか。むしろ同じように銀河たちが分布していると考えるほうが自然ではないか。一方我々の宇宙がビッグバンから始まった有限なものだとすれば、それはどこかでだんだん薄まってしまいに終わっているでしょう。
それから先の時空には何があるのでしょうか。一番ありそうなのは、我々の宇宙と類似の別なビッグバンで始まった別な宇宙があるのではないか。それら宇宙は無数にあって、無辺の時空を満たしているのではないか。このように推測された世界を「タイプ1のマルチバース」と呼びます。「マルチバース」は宇宙すなわちユニバースが複数あるという意味で、「多元宇宙」と呼ぶこともあります。
須藤博士は高知の海辺の写真を見せながら語る。これは私の生まれ育った故郷の海です。ついで、フランス国旗を掲げた漁船がいくつも停泊する綺麗な港の写真を見せて言った。