宮沢賢治は深く、長く愛されている作家だ。彼が紡いだ諸作品は独特の世界に読者を引き入れ、多くの問いかけをもたらしてくれる。その体験は、市場原理に基づく豊かさとは違う、心の畑を耕すような別様の豊かさを私たちに与えてくれる。
今回は、賢治の代表作『銀河鉄道の夜』を解題しつつ、いま忘れられがちな「大切なこと」を確認したい。(ライター 正木伸城)
『銀河鉄道の夜』は
どんな物語なのか
宮沢賢治は37歳で没するまで『銀河鉄道の夜』を書き直し続けた。現存する最終稿も“未完”とされている。この記事内で主に参照する『新校本 宮澤賢治全集』(1995年~刊)には、草稿・改稿合わせて4種類の『銀河鉄道の夜』が収められている。
物語は、ジョバンニとカムパネルラ、友人関係にある2人の少年を軸に進んでいく。ジョバンニは貧しく、病気の母と2人暮らしをしている。一方のカムパネルラは裕福で人気者の優等生だ。
ある日のこと。学校の授業が終わり、活版所での活字拾いのアルバイトを終えたジョバンニは、帰宅したあと、ネオン灯またたく町の「銀河の祭り」に行く。その途中、近所の子どもたちに出会ってしまい、からかわれる(日常的に行われている)が、そこに居合わせたカムパネルラは気の毒そうに見守るだけだった。
ジョバンニは逃げるように黒い丘の方へ行き、冷たい草の上に体を投げ、天の川を眺める。そこから、気がつけば銀河鉄道の汽車の中にいて、カムパネルラとともに南十字星へ向かって銀河を旅するという状況になっていく。
この旅は、ある種の夢であり、この世とあの世の“あわい”である。実際、稿によっては序盤で、あるいは終盤で、友人を助けるために川に入ったカムパネルラが溺死していたことが明かされる。そのカムパネルラが、銀河の旅の中で亡き母のいる死後の世界を見て、「あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ」というのだが、“生きている”ジョバンニにはそれが見えない。
そして、その“決裂”を境に、夢は急に終わってしまう。死んでしまったカムパネルラとの別れに悲嘆するジョバンニ。しかし、彼は旅の中で「ほんたうのさいわい」を求める覚悟をしていた。