「認められたい」というよりも「許されたい」

 そして私はいつも、自分が無意識のうちにこういう趣味の悪い行動をしてしまっているとき、小学6年生の頃を思い出す。私は学校があまり好きではなかった。もともと漫画ばかり読んで教室の隅っこでずっと絵を描いているような子どもだったし、いわゆる「陽キャ」で明るい他のクラスメイトたちからはいつも、「オタク」だとバカにされていたからだ。

 あの頃、私は教室の端っこの方の席に座り、黙って無地のノートに絵を描きながらも、ただ、ずっと周りのクラスメイトたちの話に、聞き耳を立てていた。

 2組のあの子、キモくない? わかるー。いっつも変なこと言うよね。そう! 口癖こんな感じ。語尾が上がるんだよね。こんな感じじゃない?

 そうやって笑いながら、「あいつはバカにしてもいい」と学年中で認定された同級生のモノマネをする彼ら、彼女らの話し声を、私はただ、じっと鉛筆を動かして、何も聞いていない、ただお絵かきに集中しているふりをしながら、ずっと聞いていた。そして心のどこかがやはり、ちょっとだけスッとした。「キモくて、空気が読めなくて、このコミュニティに迷惑をかけているから、悪口を言われても当然」と認定された誰かの悪口を聞くのは妙に、気持ちがよかった。

 ツイッターを見ているときの感覚は、あの頃と似ている、と私は思う。ひどく似ている。私はツイッター上で、誰の話も聞いていないふりをしながら、誰にリアクションを返すわけでもないのに、ただ、聞き耳を立てている。全然興味がないふりをしながらも、トイレに行くときわざと噂話をしている彼らの横を通って、悪口を聞こうとしてしまうのだ。

 そういう、直接的に手は下さないけれど、なんとなく「あいつが悪いよね」という空気をつくる大衆の中に、私は子どもの頃から自ら飛び込んでいたし、無意識に飛び込んでしまう癖がついているのだと思う。きっと、今も。

 そう、SNSは、私にとってはあの小さなホームルームそのものなのだ。たくさんの人がいるはずなのに、私の耳に飛び込んでくるのはだいたい同じような話で、その都度その都度、噂話をされる対象が変わるだけ。

 そういう空気の中で長く生きていると、ふと、自分の中にこんな感情が生まれてしまっていることに気がつく。

 あの「あいつはバカにしてもいい」という認定だけは、されませんように。

「炎上」「嫌い」というワードと並べて検索窓に入力したくなるような人間にだけは、なりませんように。仲間外れにされませんように。居場所を奪われませんように。そうだ、私はちゃんとこの場所にいる価値があると証明しなきゃ。許してもらわなきゃ。認めてもらわなきゃ……。

「集団の敵が攻撃されているのを遠巻きに見て、自分じゃなくてよかったと安心する」という癖がついてしまったせいで私は、気がつかないうちに、「そうならないため」の行動をするようになってしまっているのかもしれなかった。

 そうだ。だから、「すごいと思われたい」「圧倒的な評価を得たい」みたいな、そんなポジティブな気持ちじゃないんだよな。もともと意地汚い行動をしていることへの罪悪感があるせいで、自分自身への嫌悪感もあるのだと思う。だからこそ、「この世の中で、この社会で生きていてもいい」という許しがほしい。「仲間に入れてもいいよ」と言ってほしい。

 今の私がつい抱いてしまうのは、「認められたい」というよりも、「許されたい」という欲求なのだ。