「〇〇 炎上」と検索窓に入力するルーティン
私は平成4年生まれのドンピシャゆとり世代で、SNSとともに育ってきたと言っても過言ではない。中学生の頃に「前略プロフィール」が流行り始め、モバゲー、GREEと一通りのSNSは片っぱしから登録し、大学に入学するくらいの頃にmixiが全盛期を迎え、そしてFacebook、ツイッター、インスタグラムとそのすべてに登録し、プライベートでも仕事でも活用してきた。SNSをやっていたからこそできた縁も結構あるし、楽しいこともたくさんあった。けれど、SNSのせいで周りの目を気にするようになってしまったのも事実だ。それはたしかに正しい。
しかし、巷でよく言われる「SNSの発展によっていつでも周りと自分を比べてしまう環境が生まれ、だからこそ若者の承認欲求が肥大化している」というような考察は、ちょっと違うんじゃないかと私は思っている。少なくとも、私にとってはそうではない。
たしかに気軽に周りの人のライフスタイルが覗けるようになったことによって、「あの人よりも私の方が」と張り合いたくなる気持ちが湧き上がってくるのも事実である。だからこそ、承認欲求を満たすためにマウント投稿をしてしまうという理屈もたしかにわかる。きっとそういう人もいるだろうし、私だってそういう気持ちから行動を起こしてしまうことも多々ある。
けれど、周りのリア充アピール投稿に焦らせられるというよりもむしろ、「架空の敵を勝手に作り上げてしまう」ということの方がずっと、SNSをやっていて苦しい瞬間なのだ。少なくとも、私にとっては。
たとえばツイッターを開けば、さまざまなニュースについて、皆思い思いに自分の意見を話す。不倫した芸能人について、炎上したYouTuberについて、それぞれ「あいつ最悪だよな」「とんでもないクズ」「あーあ、何もわかってなさすぎて草」とコメントをする。それを見た私は、とくにいいね! もリツイートもしない。別にそんなん興味ないし、と心の中でつぶやいて受け流す。けれど一度見たそのコメントは、私の脳みそのすみっこのほうにちょっとだけ引っかかったまま、しばらく漂っている。
そんなふうに、会ったこともない赤の他人が吐き出している言葉たちが、毎日毎日、自分の目の前を通り過ぎていく。別に興味ないし、と最初はつぶやいていたはずなのに、私は暇になると無意識のうちに、そういやこのあいだ炎上してたYouTuberどうなったかな、とツイッターの検索窓を開いてしまう。そしてほんの少しの罪悪感を覚えながらも、文字を入力する。「〇〇 炎上」「〇〇 嫌い」と。
そうして出てきた検索結果には、その炎上したYouTuberについてのコメントがさらにたくさん並んでいる。私はもちろんそれに「いいね!」もリツイートもしない。ただ眺めるだけだ。けれど眺めているだけなのにどこか、胸のずっと奥のほうがスッとするような……語弊を恐れずにあえてこの言葉を使うならば、「恍惚感」を抱いてしまうことが、認めたくはないけれど、確実に、ある。