「いいね!」を頼りに、もうしばらく頑張ってもいいと思えるなら

 だからこそ、「周りと張り合ったり、マウントを取り合ったりするのはやめよう」という趣旨のコメントを見ると、いつもなんだかモヤッとする。そういうことじゃない。むしろ、マウントとれるくらいの元気があればどんなによかっただろうとすら思う。「より上に行きたい」というモチベーションにつながっているならむしろ活用した方がいいんじゃないかという気すらする。

 でも私の持つ感情は「ゼロをプラスにしたい」というよりむしろ、「マイナスをゼロにしたい」という欲求なのだ。そもそも自分には価値がなくて、もしかしたら次に悪口を言われる対象になってしまうかもしれない、たしかにそうなってもおかしくないくらい自分はクズだと、いつもびくびく怯えている。だからこれ以上の罪を冒してはならないと他人の顔色を伺う。「いいね!」をもらえるとホッとする。ああ、私がこの世にいてもいいよ、と言ってくれる人も少しはいるのかもしれないと思う。

 あるいは、「承認欲求」という感情についていま、こう解釈している人は私以外にはいないかもしれないけれど、少なくとも私は、こんな感じだ。いやー、怖いよね。こんなビクビクするのやめたいとも思うのだけれど、なかなか一朝一夕にもいかないから、少しずつSNSから離れるとか、自分自身と向き合ってみるとか、試行錯誤していくしかないんだろうなと思っている。

 たしかに承認欲求は必要ない。こんな感情、ない方がいいに決まっている。ない方がラクに生きられるに決まっている。でも「捨てよう」と思って捨てられるわけないじゃないか。小学生の頃に抱いたあの「次は自分かもしれない」という恐怖感を今もずっと味わい続けながら、それでもなお「私は私」なんて簡単に言えるなら、そんなんもう聖人だろうよと私は思う。

 いま、自分をやめたくてたまらないくらい自分のことが嫌いな人間が、「まずは自分を好きになる」なんて、簡単にできるはずがない。こんなダメな自分の「いいところ」を無理やり作り上げたって、本音で思えないならそんなの、虚しいだけだ。かりそめの「生きやすさ」を手に入れたってしょうがない。だったらまずは、「周りの人にいいところを見つけてもらえるように、ちょっと頑張ってみよう」でいいじゃないかと、私は思う。そうやって周りの人たちが思いがけず「いいね!」と言ってくれたそのほんのわずかな瞬間を頼りに、もうしばらく頑張ってみてもいいかなと思えるなら、生きるのが楽しみじゃなかった毎日が少しでも楽しみになるなら、それでいいじゃないかと思うのだ。

 きっといつかは私も、「許されたい」なんて思わなくなる日が来るのだろうと思う。いや、思いたい。自分に自信が持てて、自分のことが大好きになれる日が来てほしい。でもそれまでしばらくは、周りの人に「いいね!」と言ってもらえるように努力する、そして同じような心細さを抱えている人のいいところを見つけて「いいね!」と言う、でいいような気がしている。

 その積み重ねがあってようやく、「ああ、私ってちょっとはマシな人間だったのかも」と、自分を許してあげてもいいと思えるような気がするのだ。

承認欲求から解放されれば人生は楽になるのか?川代紗生(かわしろ・さき)
1992年、東京都生まれ。早稲田大学国際教養学部卒。
2014年からWEB天狼院書店で書き始めたブログ「川代ノート」が人気を得る。
「福岡天狼院」店長時代にレシピを考案したカフェメニュー「元彼が好きだったバターチキンカレー」がヒットし、天狼院書店の看板メニューに。
メニュー告知用に書いた記事がバズを起こし、2021年2月、テレビ朝日系『激レアさんを連れてきた。』に取り上げられた。
現在はフリーランスライターとしても活動中。
私の居場所が見つからない。』(ダイヤモンド社)がデビュー作。