「なくす」でもなく、「減らす」でもなく、「考えなくなる」
「承認欲求ってさ、もう、なくすのは無理じゃん」
つい最近、仕事で話していた女性が、そう言っていた。私よりも年上の人だった。
「なんていうか、承認欲求をなくすというよりは、『考えなくなる』っていう道しかないっていうか」
「ああ、ですよね。『なくす』っていう言い方は、なんか、違うような気がしますよね」
何気なく、そんな会話をした。
とくに意識していたわけでもなく、自然にその言葉が、私の口からも出てきた。
考えなくなる。
「なくす」でもなく、「減らす」でもなく、「考えなくなる」。
そこで、ハッとした。
私、いつから、承認欲求のこと、考えてない?
いつから、悩まないようになった?
思い出せない。
思えば、私はしばらく、承認欲求のことについて、考えなくなっていた。悩まされることもなかった。でもだからといって別に、私の心の中から承認欲求がなくなったのかといえば、そうではない。今でも人に認められたいという強い欲求はあるし、人と自分を比べて落ち込むこともある。
けれど、「承認欲求がある自分自身」について、考えること自体は、ひどく少なくなった。
ああ、そうか。
そういうことだったのか。
あのとき「人の目なんか気にしなくていい」「承認欲求なんかくだらない」と言っていた人たちだって、承認欲求をなくすことができるようになったわけじゃないのだ。ただ「承認欲求について考えないようにする」という方法をとれるようになっただけなのだ。
なるほどな、と私は思った。
なくす、でもなく、減らす、でもない。
考えない。
視界に入れない。
気にしない。
それがきっと、この世で多くの人がとっている、方法なのだ。
そして多くの人たちは、私が悩んで悩んで行き着いたように、「考えないようにするのが一番いい」という結論に行き着いたのだ。
なぜならそれが、一番効率がいいからだ。
気にしないことが一番、生きていく上では、楽だからだ。
それが「大人になる」ということなのかもしれない、と私は思った。
大人になる。
学生の頃とは違い、自立して自分で生活しなければならない。社会の一部として働く。一つの目標を持って、それを達成するために働く。毎日毎日、動く。そうしなければ生き残っていけない。
自分に課された仕事をこなすために、どうすればいいか考える。どんな努力をすれば、どんな行動をすれば、どんな方法をとれば、目標を達成できる? どうすれば生活していける? どうすれば面白いことができる? どうすればお金が稼げる? どうすれば幸せになれる?
そんなことを考えていると、もはや自分について悩む時間なんてない。そんな暇はない。そんなことを考えている暇があったらもっと仕事を効率よくやる方法を考えたほうがいいと思うようになる。自然と、思考がそういう方向に切り替わっていく。どうすれば効率がいいか、どうすれば一度の時間でより多くのことを成し遂げられるか。どんな時間の使い方をすれば、最も自分が成長できるのか。
自分の考え方の軸が、そういった方向にシフトしていく。
だから、気がつくと、承認欲求なんかで悩んだりすることが、とてもとても少なくなる。大学生の頃のように、時間が有り余っているわけではないから、自分が今このままでいいのかなとか、そういうことを考えることも少なくなる。
効率のいい生き方を、大人になるにつれて、身につけていく。
ああ、私はまさに今、大人になりかけている段階なんだなあ、と、その女性の言葉を聞いて、思った。
まだまだ社会人としては全然だめで、できないことも多くて、必死になって毎日働いても、それでも自分のだめなところばかり見つかる。もっともっと頑張らなきゃと思うのに、もっともっとやらなくちゃと思うのに、空回りばかりしているような気がする。自分が周りの足を引っ張っているような気がする。どんどん自信がなくなっていく。
そんなことで悩んでいると、もはや、承認欲求のことなんかで悩んでいる暇がない。仕事のことで頭がいっぱいになるからだ。もはや自分の生き方や性格なんてどうでもいいような気がしてくる。
きっと、それでいいのだと、私は思っていた。
それが、大人になることだと。
感情に折り合いをつけられるようになり、理性で感情をコントロールできるようになり、嫌なことがあってもあまり顔に出さないようになり、悩んでいることがあっても、自分だけでなんとかしようと思うようになり、人に迷惑をかけないようにしようと思うようになり……。
そうやって、自分のことを考える時間が、どんどん少なくなっていく。
自分ってどんな人間なんだろうとか、自分ってこれからどうしていきたいんだろうとか考える時間が、仕事でどうしていけばいいんだろうとか、結婚はどうしようとか、これから家族を作るならお金貯めなきゃいけないとか、そういう社会でどう生きていくかとか、社会や他人との関わり方について考える時間になる。
それが大人になる、ということなのかもしれない。
「考えなくなるっていう道しかない」
あの人の言葉が、いつまでもリフレインしていた。
考えなくなる。
考えなくなる。
心の中にはいるのに、片隅に、埃をかぶったまま、思い出されることがなくなる。