「大人になる」とは「考えなくなる」こと?

承認欲求を、なくしたい。

なくすことはできないにせよ、私はそのことで悩むことはなくなっていた。それは、私がずっとずっと、求めていたことだった。

大人になりたい、と思っていたはずだった。

承認欲求をなくしたいと思っていたはずだった。

感情に振り回されず、自分の目標達成のために行動できる、前向きな人間になりたいと思っていたはずだった。

なのに、いざ、自分の心が、感情に占拠されなくなると、とても、怖いと思った。

悩んだり、悲しんだり、焦ったり、自分なんかダメだと思ったり、周りの同期に負けたくないと思ったり、自分のことばかり考えたり、承認欲求に悩まされたりしなくなることは、実は、とても寂しいことなんじゃないかと、思った。

どんどん、自分と向き合う時間がなくなっていく。自分のことについて、考えなくなる。

大人になるうえでは、必要なことかもしれない。大人として、楽に生きていくには、大事なことかもしれない。

でも、それは同時に、ひどく怖いことだと、私は思った。

私が、大人になるうえで、今一番怖いのは、年をとることでも、体力が減っていくことでも、責任が重くなることでもなく、感情がなくなっていくことだと思った。

自分の感情を察知する能力が減っていくことこそが、一番恐ろしいと思った。

怒らなくなる。泣かなくなる。悩まなくなる。

年をとればとるほど、「大人の対応」がうまくなっていく。

それは、はたから見れば、「できた人間」に近づいている証拠かもしれない。人間として成長しているように見えるかもしれない。

でも、私にとっては、ひどく恐ろしいことだと思った。

どうしてだろう? わからない。

ただ、怖いのだ。ひどく怖いのだ。

ただ、子どもの頃は、とても強く感動できていたことが、大人になると、どんどん感動できなくなるような気がして、怖い。

子どもの頃は、泣いたり笑ったり、素直にできていたことが、大人になるにつれて、素直にできなくなっていく。それが恥ずかしいことだと思うようになる。

このままだと、いつか、本当に感情を失ってしまうんじゃないかと思うと、怖い。

綺麗な空を見ても、綺麗だと思えなくなったり、ひどいことをされても、怒ることができなくなったり、大切な人を失っても、悲しいと思えなくなったりするのは、とても怖いことだ。

ほら、こうして文章を書いている今も、「怖い」という感情が、大人になるにつれて、一日一日経つにつれて、どんどん減っていくのがわかる。

自分が、社会に合わせて、生きやすい方向に合わせていっているのがわかる。

人間が動物として、環境に順応していくのと同じように、私も今、大人として社会で順応して生きていけるように、変化しつつあるような気がする。

楽に生きられるようになるのは、とても怖いことだと思った。

自分の心の中から、感情がなくなっていくことや、承認欲求がなくなっていくことは、とても恐ろしいことだ、と。

私は、失いたくないと思った。

失いたくない。

失いたくない。

感情を、失いたくない。

薄れさせたくない。

だから、私は文章を書いているのかもしれないと、ふと思った。

子どもの頃、悲しいことがあると大泣きして表現できていたことで、私は今、泣くことができない。人前で泣いたりできない。恥ずかしいし、涙もそれほど簡単に出てこない。

そうして徐々に、誰もが持っていた感情を表す表現方法を失っていくから、だから、私は書きたいのかもしれないと思った。

自分の感じたことを、失いたくないから。

感じたことを、そのまま見える形に表しておきたいから。

誰かと、この感情を、共有したいから。

だから、表現したい。書きたい。書いたものを、誰かに読んでほしい。

その欲求だけで、私は書いているのかもしれない。

私は結局、まだまだ承認欲求に囚われていて、だからこそ、認めてほしいからこそ、書いているのだ。自分の感情を、この強い強い感情たちを、自分じゃない誰かに、世界中の誰かに、みんなに、「私も同じだよ」と、「私もその感情を持っているよ」と、「それでいいんだよ」と言ってほしいから、認めてほしいから、私は書いているのかもしれない。

そうだ、結局私はまだ、承認欲求に、ずっとずっと囚われているんだな。

でも、それでいいと思った。

そのままがいいと思った。

自分の強い感情を持ったままが、いいと思った。

私は、感情を、一通り、感じることができる人生を送りたい。

今までに自分が感じたことのない感情を、体験したい。こういうことがあると、自分はこんな風に思うんだとか、こんな風に感じるんだとか、そういうことを、常に体験しながら、毎日生きていたい。

だって、その方が、色々な人と、繋がることができるような気がするからだ。

人の気持ちがわかる人になりたい。

今、その人がどんなことを考えているのか、共感できる人になりたい。

たとえば、私にいつか子どもができても、きちんと、どうしてその子が泣いているのか、どうして怒っているのか、わかってあげられる人になりたい。その人が、どう思っていても、どんなことで悩んでいても、「それでいいよ」と言ってあげられる人になりたい。

そういう人になりたい。

だから、このままで、いい。

このままがいい。

その考え方が、「人の気持ちをわかってあげられる人の方が、人に好かれる」という、承認欲求的な思考回路のもとに、生み出された結論だとしても、私はそれがいいと、本気で思う。

おかしいだろうか。変だろうか。

変じゃないよな、と私は思う。

変なことなんて、この世界のどこにもきっと、存在しないのだ。