今回(第3回)のテーマは、「消費」についてです。前回のテーマ「エコロジー」と切っても切れない関係にあり、「環境破壊の原因は、大量消費時代にある」という人も少なくありません。消費にはどことなく“罪悪感”も漂います。消費は本当に罪なのでしょうか――。

糸井重里 「消費は悪だ」と言わんばかりに、僕たちは“もったいない理論”が好きです。特に近年はその傾向が強くなっています。

 例えば、石油資源の有限性について話すとき、なぜだかイキイキとした表情になっていることに気づきます。人は、“有限の資源”についての話が好きなのです。

 もちろん資源を大切にすることは大事なことです。でも僕は、近年の“もったいない理論”に少し違和感を覚えます。これはある意味、昔の時代【資源を際限なく使っていた(使えると思っていた)時代】を懐かしく感じていることへの裏返しではないのか――、僕はついそう思ってしまいます。

 近年のもったいないブームが起こるずっと前、日本には「もったいない」をあたりまえのように言っている時代がありました。日本人は、お爺さんやお婆さん、お父さんやお母さん、先生や近所の人にいたるまで、多くの大人たちから「物を大切にするように」と言われ、「もったいない」という言葉が生活に染みついていたのです。

「消費」に対する罪悪感を利用した
現在の“もったいない理論”

 しかし、その後の高度経済成長に伴い、「使い捨て」があたりまえの世の中となり、「もったいない」は時として“カッコ悪い”ことに変わっていきました。しかし、今は環境問題への関心が高まり、有限の資源を濫用してきたという反省からか、再び「もったいない」が注目され始めました。

 でも見方を変えると、この“もったいない理論”は、生産者側の立場から出てきた理論ではないだろうか、と僕は考えます。限りある資源を少しでも延命し、商品を作り続けたい――そんなことも感じられます。その背景には、商品やサービスが人々の生活を豊かにし、国を発展させてきたという歴史があるのかもしれません。「生産すること」=「正しいこと」、とされてきたのです。

 一方、「消費」はどうか。まるで十戒で定められた罪のように、「消費すること」=「いけないこと」だと語られてきた歴史があります。人びとの心の中に無意識に存在する消費への罪悪感が、近年のエコロジーの考え方につながっているのかもしれません。ある意味、「もったいない」は、罪悪感に対する“免罪符”になっているのです。現在の“もったいない理論”は、消費者側の中にある免罪符を生産者側がうまく利用している、といえるかもしれません。