「イフ世界の自分」を想像して不安が止まらない

そう。呼ばれなくなったのである。

……いや、「呼ばれなくなった」というとちがうな。語弊があるな。ちょっと盛ったな。すいません。

いや、「呼ばれなくなった」じゃねえよ、

最初から「呼ばれない」んだよ!!

そうなんだよ! 私結婚式マジで呼ばれてない! というか友達がいない! え? これまで何回結婚式行った? 数えるほどしか行ってなくない? 呼ばれてもいいはずのやつスルーされてる回数だいぶ多くない? いや本当に仲良い友達は呼んでくれてるけど!! ありがとうございます慶んで出席させていただきます!!

……とまあ、ふと冷静になったとき、結婚式に呼んでもらうほど仲の良い友達が少なすぎるという事実にいまさら気がついて、絶望したのである。

いや、といっても、それも仕方がないことなのだ。「なんで呼んでくれないのよ! きいい!」と旧友たちを責めるつもりも毛頭ない。なぜなら私は20代のほとんどを仕事ややりたいことに費やしてきたし(それこそライターとして食っていけるようになるために、文章を書くのに必死だった)、気がつくと、仲の良かったはずの友人たちとも疎遠になってしまった。「卒業しても定期的に会おうね」と言っていたはずが、せっかく誘ってもらっても仕事のために行けない日が続いた。もちろん、仕事の予定が読めなくて確実に休めるかどうかわからず、自分から誘うなんてこともほとんどできなかった。そんなことを繰り返していると、いつしか誘われることもほとんどなくなった。

そしてそれを、私自身も問題であるとは認識していなかった。むしろ誇らしく思っていたと言ってもいい。あまりこういうことは言いたくないけれど、なんなら、そうして楽しげに遊んでいる友人たちを見下している部分もあった。

仕事ややりたいことに邁進し、時間を有意義に支えている自分。

恋話や愚痴や噂話など、くだらない話で盛り上がる友人たち。

あなたと私は違うのよみたいな、冷めた一線を引いていた部分もあったと思う。いや、あったな。あった。間違いなくあった。そして、その考え方は絶対的に正しいと信じて疑わなかった。長い目で見れば、時間を無駄にしていない私のほうが充実した人生を送れるのだと確信していた。

でも、その集合写真を見た瞬間ふと、寒気がした。ゾッとした。その集合写真のなかにいたかもしれない「自分」を想像して、そうやって旧友の晴れの日を祝い、涙を流している「イフ世界の自分」を想像した途端、ぞわりと身体中に恐怖心が駆け巡った。

ああ、そうか、人生ってもう取り返しがつかないんだ。

友達とわいわい騒ぎたいなら、やりたいことをやったあとでいい。そう思っていた。遊ぶのはそのあとでいくらでもできる。だから今は自分のやりたいことや仕事に全力投球しよう、と。

でも違うのだ。「あとでやろう」はできないのだ。不可能なのだ。もう人生は分岐している。私は友人たちとの絆を大切にしたり、心と心を繋いだり、互いの門出を祝ったりする世界線に戻ることはできない。やり直しはきかない。

私は選んでしまったのだ、「結婚式に呼ばれない人生」を。

「人生はいくらでもやり直せる」なんてよく言う。でもそれは綺麗事だ。人生はやり直せない。失った時間は絶対に戻ってこないし、一度選んだ世界線から、セーブデータをロードし直して別の世界線にルート変更するなんてことできないのだ。

私は時間を有意義に使っていると思っていた。

友達とわいわい過ごす時間を犠牲にした代わりに、私はもっと成功できるはず。もっと幸せな人生を手に入れられるはず。

そうやって信じて選んだはずの世界で、もし、失敗してしまったら?

友達との時間を犠牲にした対価が得られるはずと思って選んだ世界で、何も対価が得られなかったら?

そもそも、私が「有意義に過ごした」と思っていた時間が、全部無駄になっちゃったら?

そんな考えが一瞬で頭の中を駆け巡って、もうどうにもこうにも、いてもたってもいられなくなってしまった。