キリスト教の台頭

 ローマ帝国には、いろいろな宗教があった。最初、ほとんどのローマ人は多神教(たくさんの神々を崇拝していた、ということ)で、地域伝来の神話とギリシア神話を織り交ぜたものを信じていたけれど、神々の名前を自分たちの言葉に変えていた。

 たとえば、ギリシア神話の「ゼウス」は、「ユピテル」(基本的には、ラテン語で「天空の父」の意味)となった。ローマ人は、おおむね信仰の自由が認められていたけれど、すぐに、キリスト教が問題として浮かび上がる。ローマ皇帝たちは、キリスト教のことを、ユダヤ教からはずれた危険なカルト宗教だとみなしはじめたのだ。

 キリスト教徒たちは、イエスというユダヤ人の男性の教えを信じていた。イエスは、キリストとも呼ばれた(だから、その信者は「キリスト教徒」、というわけだ)。

 イエスは、神はただひとつしか存在せず(これを一神教という)、優しく寛容だと説いた。そして、神やお互いを愛し、寛容な心を持ち、まっとうな暮らしを送れば、永遠の命が手に入る、と説いたのだ。

 そのため、キリスト教徒にとっては皇帝よりも神のほうが偉大な存在である、という考えがローマ人のあいだで広まった。すると、古代ローマのある統治者は、イエスが政府に対する反乱を導くんじゃないか、と心配し、イエスを処刑してしまう。

 しかし、『福音書』と呼ばれる宗教的文書によると、イエスは生き返り、弟子たちに自身の教えを広めるよう伝えたといわれる。

 ローマ帝国じゅうで、キリスト教徒たちが結集した。信徒のひとり、パウロは、遠く離れた都市の信徒たちに向けて書簡を記し、イエスの教えを広めるための旅に出たのだ。

 キリスト教徒の数が急激に増えると、ローマ政府は、キリスト教徒であることを犯罪とみなすようになり、キリスト教徒の迫害を始める。

 おおぜいのキリスト教徒たちが、その信教ゆえに命を落とし、殉教者となった。それでも、キリスト教は広まりつづけ、後300年には、ローマ人の1割近くが、キリスト教徒になっていたという。こうして、現在、キリスト教は世界でいちばん人気のある宗教のひとつになったのだ。

皇帝コンスタンティヌス

 皇帝コンスタンティヌスも、キリスト教の普及に貢献した人物だ。当時、ローマ帝国は弱体化しつつあったけれど、逆にキリスト教会はどんどん権威を増していた。312年から337年までローマ帝国をおさめたコンスタンティヌスは、キリスト教に改宗して、初のキリスト教徒のローマ皇帝となる。

 彼は、ミラノ勅令で信仰の自由を宣言し、迫害を終わらせ、礼拝用の教会も建てた。また、ローマ帝国の首都をビザンティウム(現代のトルコの一部)に移し、新ローマと名づけた(その後、ビザンティウムはコンスタンティノープルと改称され、のちに現代の呼び名と同じイスタンブルになった)。

 この都市は、帝国の東部国境を守る戦略的な位置にあった。

ローマ帝国の衰退

 180年、18歳でローマ帝国をおさめはじめた皇帝コンモドゥスこそ、その浅はかな決断で、ローマ帝国の滅亡の道筋をつくったとされる人物だ。彼は元老院と対立し、軍を賄賂で味方につけると、彼の後継者たちも、賄賂とお粗末なリーダーシップという、彼とまったく同じパターンを引き継ぐことになる。

 ほかにも、ローマ帝国は、いろんな問題に直面した。帝国に対する忠誠心なんてみじんもない傭兵たちへの金銭の支払い。インフレーションとの戦い(価値のない硬貨をつくりすぎたことが問題の原因)。疫病との戦い。征服した土地を守るための戦い……。

 結局、ゲルマン人の侵略者たちが、ローマ帝国の西側を掌握することになる。そうして、コンスタンティノープルが、東ローマ帝国の首都として残ったのだ。

(※本原稿は『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』を抜粋・再編集したものです)