“父殺し”もいとわぬ二男、武雄を返り討ちにし、ロッテグループから「追放」

「お前にロッテを経営する才能はない」と二男・昭夫に引導を渡した重光武雄。その5日前には、後継者の長男・宏之の追放を仕掛けた日本のロッテホールディングスの社長と専務にもクビ宣告しており、これでクーデターは失敗に終わり、ロッテに再び平和が訪れるはずだった。だが、先の社長と専務、そして昭夫は武雄の命令に従わず、公然と反旗を翻した。怒った武雄は日本のロッテ本社に直接乗り込み、“反乱軍”を一度は鎮圧するものの、結局は彼らの返り討ちに遭い、ついにはロッテグループから追放されてしまうのだった。(ライター 船木春仁)

武雄のクビ宣告を無視する下剋上3人組
昭夫は武雄に無断で代表取締役に就任

「お前はロッテを全部(経営する)そういう才能を持っていない」
「お前一人のためにロッテグループ全部を悪くするわけにはいかない」

 2015年7月8日。武雄はついに二男・昭夫に引導を渡した。武雄にすれば、自身に無断で中国事業へ巨額の投資を行い、1兆ウォン(約1000億円)にもなろうかという赤字の垂れ流しを隠していた昭夫は経営者として無能であり、ロッテグループに害をもたらす存在でしかないと判断したからである(『ロッテを奪われた男・重光武雄 「お前にロッテを経営する才能はない!」――武雄がついに昭夫に引導を渡す』より)。

 その5日前の7月3日には、昭夫と共に、長男・宏之の追放を仕掛けたロッテホールディングス(HD)社長の佃孝之と専務CFOの小林正元も直接武雄からクビが宣告されていた。昭夫と組んでロッテグループを乗っ取ろうとしている佃、小林の“クーデター3人組”は同罪であり、一刻も早く粛清すべしと考えたのだろう(繰り返しになるが、佃、小林、昭夫の3人は裁判で一貫して共謀の事実を否定している)。下の年表のように、14年12月17日に武雄が佃の虚偽報告に騙されて宏之に「クビ発言」をしてからわずか3週間で後継者の宏之をロッテグループから追放するという、周到に準備されていたクーデター。だが、そんな下剋上も、ロッテの“神様”武雄の降臨で、事件勃発の8カ月後にようやく終幕を迎えたかに見えた。

 だが、武雄が昭夫に引導を渡した1週間後の7月15日。昭夫は、ロッテHDの取締役副会長の座を返上するどころか、さらに代表権が付与された代表取締役副会長となった。それまで昭夫はグループ内の会合では「経営権を奪うつもりなんてありませんよ」と野心などないかのようにうそぶいていたが、武雄の引導に逆い、公然とロッテグループのトップの座奪取へ動いたのである。昭夫が唱え始めていた「ワンロッテ・ワンリーダー」、つまりそれまでの「日本は宏之、韓国は昭夫」で、それをリーダーの武雄が率いるという「ツーロッテ・武雄リーダー」を否定し、宏之追放で日本事業を奪った昭夫が武雄に取って代わるというクーデター宣言が現実のものとなったのである。武雄が許すはずもないが、宏之追放で明らかなように、取締役会も株主総会の議決権も過半数を押さえているから、したい放題なのだ。

 それは昭夫の庇護下にある佃や小林も同様である。前々回の連載で述べたように、佃も小林も武雄のクビ宣告に無視を決め込み、一向に辞める気配はなかった。昭夫に引導を渡した時の面談でも、武雄はこれを詰問したが、昭夫は「辞表は預かっている」「一応、(2015年)7月末か8月末ぐらいの退任を考えています」など、のらりくらりとかわし続けた。武雄は、「佃を即刻辞任させ、宏之を取締役副会長に戻すことを前提とした『1週間以内の原状回復』」を命じ、さらに、この内容を誓約書にしてサインを求めたが、昭夫はサインすることなく逃げるように去って行ったという。それから1週間、佃と小林が牛耳る日本のロッテHDの取締役会で昭夫に代表権が付与されたのだから、武雄の怒りはすさまじかった。昭夫の代表取締役就任を知った武雄はこう叫んだ。

「昭夫ら全員を刑務所にぶち込め!」

 だが、怒り狂っても後の祭りである。この時すでに昭夫は武雄追放の腹を固めていたのではないだろうか。当時、ロッテHDの代表権者は武雄と佃の2人である。もし、武雄の命令に従って、日本側の実質トップの佃とナンバーツーの小林が辞任し、宏之が復帰すれば、宏之が日本のトップ、そして代表取締役となるのは必至である。かたや武雄が昭夫に、従来通り宏之と平等になるように代表権を与えるわけはないし、韓国での武雄に次ぐナンバーツーの座を保持できるかさえ怪しい。宏之の復帰は実質的な事業承継の前倒しを意味し、後継の可能性が永遠に無くなる昭夫に唯一残された後継の手段は、武雄の寝首を掻いてロッテを奪い取ることしかなく、それは、クーデターを鎮圧したと武雄が油断している今しかない。そう昭夫が考えても不思議ではないし、事態はその通りに進んでいく。

 昭夫を見ていると、戦国大名の斎藤義龍を思い出さずにはいられない。油の行商人から身を起こし、美濃の国主まで上り詰めた父・斎藤道三から家督を継いだものの、道三は「この耄者(ほれもの=愚か者)に任せられん」と義龍を見限り、「利口者」である他の兄弟に家督を譲ろうとした。すると義龍は他の兄弟はおろか父までも殺して、後継者の座を確固たるものにしたのである。道三と義龍のように、武雄の引導は、昭夫を“決断”させるのに十分だったのはではないか。そう思えてならないのである。