江戸城が天守を失っても200年攻められなかったワケ、驚異の防衛システムのすごみ皇居外苑 Photo:PIXTA

前回の記事で、「城は攻められたら落ちる」の発想のもと、川や山地といった地形も活用し「多重防御都市」を造り上げた江戸の防衛システムのすごみについて解説した。今回はもう少し視野を狭めて、防衛の観点で緻密に設計された江戸という街を見ていこう。(作家 黒田 涼)

200年、天守がなかった江戸城が
攻め落とされなかったワケ

 先日、関東全域に張り巡らされた徳川家康の江戸城(というか江戸)の防衛システムについて書いた(3月12日配信『徳川家康が難攻不落の江戸城を築いた「逆転の発想」 、マッカーサーとの共通点も』)。点にしかすぎない城のレベルをはるかに超えた家康の構想力に驚かれた方も多いと思うが、今回はやや視点をミクロ寄りにして(といっても江戸郊外まで含む巨大さなのだが)、江戸と江戸城の防御システムについてお話ししたい。

 前回の記事で「難攻不落の城」というフレーズを腐したが、今回も天守の大きさや石垣の高さなどばかりに注目するのは無意味、と言っておく。

 例えば、姫路城の天守など素晴らしい建築で美しく威厳もあるが、実は軍事的にはあまり意味がない。下に迫られて火でもかけられたら一発で終わりである。実戦では物見櫓(やぐら)ぐらいの効果しかない。石垣もそう。土塁よりは登りにくく攻め手の移動を規制できるが、十分な幅の堀があれば土塁と効果的には大して変わりはない。

 天守や石垣は、戦闘以前の視覚的効果、威嚇が一番の役割だ。「こんなすごい天守や石垣を築ける(財力がある)大名とは戦ってはいけない」と思わせるのが大事なのだ。他の武家だけではなく、町人や農民にもその支配力を見せつけるのが目的のものだ。

 だから、すでに江戸時代初期に「天守など敵の標的になるだけで無用の長物」などという声さえあった。それが証拠に、威嚇の必要がなくなった徳川幕府は、江戸城天守が焼けても再建しなかった。幕末までの200年、江戸城には天守がなかったのである。

 では実質的にどうやって江戸を守っていたのか? 前回も書いたように、城は城下に攻め寄せられた時点で終わり、落城は必至なのだ。だから敵が城下に迫る前にいかに防ぎ、殲滅(せんめつ)するかが肝心だ。

 今回はそうした工夫の中で、江戸郊外に敵が迫って以降の防衛システムを紹介しよう。今もそのシステムは地図を見ればよく分かるのだが、あまりに規模が大きすぎて、近くを歩いていても石垣や天守や櫓のようにはっきりと認識はできない。それは街の構造にあるのだ。