歴史好きの間で近年、戦国大名である三好長慶の注目度が高まっている。研究の進展により、織田信長ではなく、長慶こそが「最初の天下人」だったと言われているのだ。そんな長慶が天下を取ることができた要因を、彼が築いた城から見て取ることができる。長慶の城は、地政学的に非常に優れた役割を果たしていた。現地で分かったそのすごみを紹介する。(作家 黒田 涼)
「最初の天下人」三好長慶が
築いた城が地政学的にスゴイ理由
近年、戦国大名の三好長慶(みよし・ながよし)が注目されている。戦国末期、最初の天下人といえば織田信長というのがこれまでの見方では相場だったが、「天下」という概念の研究が進んだこともあり、最近は三好長慶こそが、最初の天下人だったという見方が強くなりつつある。
長慶の生まれは阿波(現在の徳島県)の内陸奥地で、現代の感覚からすると天下(畿内)からは遠い。しかし交通の中心が水運だった当時、四国を流れる吉野川から大阪湾、淀川と連なるルートは、現代の高速道路に近い感覚だった。
この水上交通網を支配したのが長慶の強さの源泉だ。長慶は、さらに堺などの経済的要地を取り囲む城を次々と築いて、天下を手中にした。その長慶の城に登ると、その位置の地政学的意味が視覚的によく分かる。本稿では、山城に登った者だけが分かる秘密をご紹介する。