「あおられ運転」と名付けることによって
「あおり」を正当化するドライバー

 ドライバーの中にはまれに、常にあおり運転をしていないと気がすまないような人もいるが、そうでない多くの場合は、何かしらのトラブルがあって感情がこじれてあおり運転に至る…という流れをたどる。

 だから、まず慈愛の精神を心がけて運転に臨み、トラブルを回避してあおり運転被害に遭わないようにするというアプローチは妥当かつ賢明だろう。

 問題は、「“あおられ運転”(無自覚に『あおられやすい運転』をしている人)を改めれば、あおり運転に遭う被害を減らすことができるであろう」という言説が語られる時である。

 このケースも内情は二つに分かれていて、「あおられる人を純粋に心配し、アドバイスを授けようとするケース」と「“あおられ運転”する人を非難したい気持ちが混ざっているケース」がある。よく目に付くのは後者であり、こちらの方がドライバーの本音により近いように思われる。

 こうした主張をする発信者は、車関係の媒体や、特に車関連動画を投稿している動画投稿者など、車の運転により深く関わっている人に多い印象を受ける。「あおる方が悪いのは間違いないが、あおられる側にも原因はある」という正論が、この人たちにはある。「だから“あおられ運転”をやめて、トラブルを回避し、平和にドライブを楽しみましょう」くらいまで付け加える人もいるが、そのベースに「あおられ運転する人を非難したい気持ち」があるのはどうしても伝わってくる。さらに、「あおり運転をした方にも事情があったんだよね…」というあおり運転の正当化につながることすらある。

 そもそも悪いのはどう考えても“あおり運転”である。あおられやすい運転を“あおられ運転”と名付けて、さも“あおり運転”と同列に論じようとする風潮には危うさを感じざるを得ない。

 あおり運転根絶のためには「世の中には、あおり運転を許容する隙が一分もない方がいいのではないか」と筆者などは考えるのだが、少なくとも現段階においては、ドライバー感情を無視した絵空事であろう。