ロッテグループの創業者であり、オーナーだったはずの重光武雄は二男の昭夫によっていとも簡単に、すべての地位を剥奪され、追放されてしまう。それを可能にしてしまったのは、武雄が30年かけて行ったグループの資本関係の再編成だった。ロッテ経営の最大の懸念事項であった武雄の相続と事業承継の問題、そして日韓で複雑に交差するいびつな資本関係を解決すために行ったはずの資本政策が、昭夫らクーデター組にとって絶好の陥穽を生み出していたのだ。果たして、武雄が後半生を捧げて行った資本再編とは何だったのだろうか。(ライター 船木春仁)
1兆円超えの相続税対象財産が背を押した資本再編
武雄の相続税対象資産はゆうに1兆円を超え、相続税を現金で払えない宏之や昭夫は、ロッテの株式や不動産で物納することになり、グループの事業や資産はバラバラになる――。
1977年頃、ある信託銀行に試算させた、武雄が保有するロッテの株式の評価額はロッテ経営陣を震撼させた。その額はなんと約1兆円。これに武雄個人名義の不動産なども加えると、武雄の資産は、相続税の課税対象となるものだけでゆうに1兆円を超えていた。当時、ロッテの傘下には日本に約30社、韓国に80社のグループ企業があり、武雄も個人名義で大量の不動産やゴルフ会員権を保有していた。77年当時に数え年で56歳だった武雄にとって、相続は近い将来必ずのしかかってくる頭の痛い問題であり、抜本的な相続対策は焦眉の急であった(当時、武雄が99歳まで天寿をまっとうするとは知るよしもない)。
1941年に渡日し、裸一貫でロッテを創業した武雄は、61年にチューインガム日本一の座を獲得し、64年にチョコレート、72年にアイスクリーム、76年にビスケットに参入し、ロッテは大手総合菓子メーカーとなっていた。79年にはソウルでロッテホテルとロッテ百貨店を開業し、これに前後して、韓国では78年に平和建設(現・ロッテ建設)を買収し、79年に湖南(ホナン)石油化学(現・ロッテケミカル)に出資、財閥への道を駆け上がっていた。この後、84年に日本で製菓業界で売り上げトップとなり、88年のソウルオリンピックに向けたロッテワールド開設など、武雄は驚異的な積極拡大路線をひた走り、奇跡的な成功を重ねていった。信託銀行が試算を行ったのが77年頃とされるから、もしそのまま相続対策を行っていなければ、課税対象資産は数兆円に膨れ上がっていたことだろう。
実は、武雄は節税と相続対策については人一倍熱心に力を注いできた。会社を守るための重要な経営課題として腐心していたというべきだろう。そのために人脈の形成や専門家の招聘に積極的に取り組んでいた。その活動の基点となっていたのが、大蔵(現・財務)大臣経験者や大蔵族議員、大蔵省・国税庁関係者に広げた強力なネットワークだった。
例えば、重光家では、夏休みに軽井沢の万平ホテルに武雄は5日程度、妻のハツ子と子どもたちは1カ月ほど滞在するのがならわしだった。その際、武雄は政治家や大蔵省関係者などと会食やゴルフを楽しむ会合を組んでいた。この会合は2グループに分けられ、それぞれ2泊3日で行われた。そこには、税制通として知られた元大蔵大臣の村山達雄、自民党税制調査会会長などを務めた津島雄二、大蔵族のボス格だった大原一三、国税庁長官や大蔵省事務次官を務めた吉国二郎などの姿があった。
これに加えて武雄は、財務や税務対策を強固にするために国税OBを次々と役員として迎えている。75年に元熊本国税局長の坂本雪を採用したのを皮切りに、“税制の神様”と呼ばれた元金沢国税局長の松井静郎、同じく元金沢国税局長の金親良吉、元国税庁長官の濱本英輔など国内最高レベルのエキスパートたちを招聘した。
その中でも、松井はロッテ副社長などの要職を歴任し、ロッテグループの金庫番として、70年代から90年代にかけて行われた、後の事業承継につながる数々の施策や組織再編も主導する。具体的には3つの大きな課題、つまり武雄の(1)所得税問題、(2)相続問題、(3)ロッテグループの同族認定問題――をテーマに据え、その解決に向けたシナリオを描いた。これが77年頃のことで、前述した信託銀行によるロッテ株式の評価額の試算もその一環だった。以来、約30年間にわたり国内トップクラスのエキスパートたちを動員した、ロッテグループの事業承継と相続に向けた準備が始まった。
2007年のロッテホールディングス(HD)設立(持株会社制移行)は86歳になっていた武雄の資本政策の集大成とも言うべきものだった。ロッテHDとロッテグループの資本構成は一見、特殊に見えるが、その経緯を振り返れば当時の武雄が目指したであろうロッテグループの姿がはっきりと浮かび上がるのである。