創業者である父・重光武雄と後継者の兄・宏之の寝首を掻いて、すべての役職を奪ってロッテグループから追放してしまった昭夫。「父・兄弟殺し」の汚名にひるむことなく、肉親を躊躇なく地獄に蹴落とせる“モンスター”を、子煩悩として知られた武雄がなぜ生み出してしまったのか。その謎を解く鍵は、昭夫をクーデターへ駆り立てる原因となったであろう、武雄と宏之に対する積年の鬱積した敵対感情と、自分の身を焦がし続けてきた強すぎる「承認欲求」と「失敗恐怖」ではないのだろうか。(ライター 船木春仁)
父親の寵愛を独占する兄に鬱積した敵対感情
「カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、彼の羊の初子の中から最良のものを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って顔を伏せた。」「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。『弟アベルは、どこにいますか』。カインは答えた。『知りません。わたしが弟の番人でしょうか』。主は言われた、『何ということをしたのか。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます』」(旧約聖書 創世記)
人類最初の殺人は、アダムとイブの長子であるカインによる弟・アベルの殺害であるとされる。ともに主(神)へ捧げ物をしながら、神はアベルとその捧げ物に目を留めたが、カインとその捧げ物には一顧だにしなかったことに嫉妬したことが原因だという。この神話を基に心理学者のユングは、兄弟が差別的に親の愛情を受けた場合に、親に愛されていないと感じた者が、他の兄弟に対して嫉妬や憎悪などの強い敵対感情を持つことを「カイン・コンプレックス」と定義した。他の兄弟に対する劣等感、親の愛情を得るための他者への攻撃。これは兄弟だけでなく、職場や学校の同僚、さらには親や近親者などとの関係でも生じるという。なお、カインの「知りません」の言葉も人類最初の嘘として広く知られている。この「カイン・コンプレックス」の敵対的感情と嘘で塗り固められた状態こそが、兄・宏之や父・武雄の寝首を掻いて、すべての役職を奪ってグループから追放してしまった昭夫の動機の根幹を成すものだったと思えてならない。
人はどこまで肉親に酷いことができるのか――。戦国武将の斎藤義龍を彷彿とさせる「親殺し、兄弟殺し」の汚名にまったくひるむことなくクーデターを遂行した昭夫の言動は、かつて欧米で行われた社会心理学実験を思い起こさせる。例えば学生を看守役と囚人役に分けると、看守役は攻撃的になり、権力を乱用し、邪悪な振る舞いを行うようになるといったものである。人を異常行動に駆り立てるのは、精神的に特殊な要因や環境によるものであり、昭夫の冷酷な行いは「カイン・コンプレックス」と無関係だと言い切れるだろうか。余談になるが、カインは弟殺しだから、兄殺しなら正確には「アベル・コンプレックス」だろうし、ロッテと重光家という、企業と家庭における唯一絶対の“神”であった武雄までも手にかけた昭夫の場合は「アキオ・コンプレックス」と呼ぶべきかもしれない。いずれにせよ、冷酷過ぎる行動を繰り返した昭夫にも同情の余地が無いわけではない。
まずは武雄の子育てぶりを振り返ってみよう。前著(『ロッテを創った男・重光武雄~成功の軌跡をたどる』より)でも指摘された通り、仕事一辺倒だった武雄は、1954年1月に長男の宏之、翌55年2月に二男の昭夫が誕生したことで人生観が大きく変わった。家庭を顧みず、工場に寝泊まりして働き、研究に没頭していた武雄は、子どもの誕生を境に「家庭」をこう語るようになった。
「家庭生活の向上が文明の根本的な目標であり、すべての努力の最終的な目的だ。家庭は幸せを貯蓄するところであり、それを採掘するところではない。(中略)誰でも家庭の暖炉のそばで待つ雰囲気を尊重する。この自由な尊重を享受するのは、天がすべて賦与した権利だ」*1
ただし、武雄の3番目の弟である四男の辛宣浩(シン・ソンホ)は、東京・小岩に住み、重光家をよく訪れていたが、兄・武雄の子育ての様子をこう振り返っている。
「長男を二男の百倍以上、可愛がってきた」
これで武雄を責めるのは酷かもしれない。李氏朝鮮の貴族階級である「両班(ヤンバン)」出身の武雄にすれば、長男は戸主の座と祭祀(チェサ=族譜や祭具)を引き継ぎ、家長として一族を率いるかけがえのない存在で、宝物のように大切にするのは当然のことだ。だが、極端な愛情の偏りが、後継争いに多大な影響を与えたことは否定できない。昭夫にすれば、たった1年と半月遅く生まれてきただけで、なぜこんなにも扱いが違うのかと納得できなかったとしても無理はない。長男への偏愛を隠さなかった父親と、父親の寵愛を独占した兄を経営者の座から引きずり下ろし、“王国”から追放するのに十分な理由があったということになるだろう。まさしく、鬱積した「アキオ・コンプレックス」である。
*1 鄭准台 『辛格浩の秘密』(未訳)2017年