理不尽な出来事を自ら引き寄せてしまう根本理由

「認められたい」という気持ちを、どうしてもなくすことができない、という話をすると、だいたいこんなふうな反応を返される。

「そんなにすごい人になる必要はないんだよ」と。普通でいいんだよ。自然体の自分が一番、幸せになれるんだよと。

その意見に同意しつつも、何かが合致しない、違和感の空白みたいなものをそこに感じていた。

違うのだ。「すごい人になりたい」なんて思っていない。「普通」のなり方がわからないだけなのだ。どこに所属すればいいのかわからない。所属するために、排除されないためにルールを守ろうと必死になればなるほど、「許してもらうこと」へのハードルが上がる。

私の中には「許してくれなかった社会」と「許してもらう力がなかった私」という、二つの存在がいて、いつも交互にせめぎ合っているのだ。社会のせいにすればいいのか、私の責任としてとらえればいいのか。どちらが正解なのか、いまだに答えは見つかっていない。

けれど最近ひとつ、気がついたことがある。

それは、いま私が苦しめられていると思っている「理不尽」は、私自身の中で雪だるま式に大きくなっているのではないか、ということだ。

一度、大きな理不尽と対峙すると(私にとっては最初のそれが小学生時代の経験だった)、その「許してもらえなかった何か」に許してもらうことが次の目的になる。次は怒られない自分でありたい、というモチベーションで努力するのは悪いことではないかもしれないが、そういう生き方が癖になると、徐々に「私を許すか・許さないかを判断してくれる大きな脅威」を自ら引き寄せてしまうのではないか、と思ったのだ。

「理不尽な出来事を経て残ってしまった心の負債を解消するには、より大きな存在から『許し』を得ないといけない」という錯覚に陥り、もう負債なんて何も残っていない(そもそも負債など存在しないのだが)はずなのに、これまでの「罪」を帳消しにしなければ「普通」になれないという思い込みのために、より許してもらいにくい現実を選びにいってしまう。

マイナスをゼロにするために努力していたはずが、動けば動くほどマイナスが大きくなって、生きづらさが胸の中で膨らみ、巨大なものになってゆく。幸せになるために努力していたはずなのに、生きづらさばかりがどんどん増えていくというメカニズム。結果、「理不尽な社会」への怒りもさらに募っていく。

私はゼロなのだ、と言い聞かせるようにしている。マイナスでもプラスでもない。私には負債は存在しない。理不尽と戦って疲弊する必要もない。

当然、29年もかけて染み付いてしまった心の癖が一朝一夕になくなるはずないから、これは即効性のあるおまじないなんかではない。ただ、自分はマイナスじゃなくてゼロなんだと自覚するだけでも、世界の見え方は変わる。

「自己肯定感」というのも、こういうことなんじゃないかと思うようにもなった。これまで私は「自己肯定感」とは、「自分はプラスの存在だ」と認知することであると考えていたけれど、そうではなく、「ゼロ」だと知ることなのではないか、と。

より大きな脅威を求めなくてもいいのだ。何かを取り返すために努力しなくてもいいのだ。存在しない罪を償うために生きなくてもいいのだ。

私はこれまでもずっとゼロだったし、今もゼロだし、これから先もずっとゼロのままだ。

この事実だけで、随分と心は救われる。

無意識に「他人に否定されやすい環境」を選んでしまう人の特徴川代紗生(かわしろ・さき)
1992年、東京都生まれ。早稲田大学国際教養学部卒。
2014年からWEB天狼院書店で書き始めたブログ「川代ノート」が人気を得る。
「福岡天狼院」店長時代にレシピを考案したカフェメニュー「元彼が好きだったバターチキンカレー」がヒットし、天狼院書店の看板メニューに。
メニュー告知用に書いた記事がバズを起こし、2021年2月、テレビ朝日系『激レアさんを連れてきた。』に取り上げられた。
現在はフリーランスライターとしても活動中。
私の居場所が見つからない。』(ダイヤモンド社)がデビュー作。