気軽に自分の思いを共有・発信しやすいというメリットがある一方、見たくもない他人の華やかな人生が無遠慮に流れ込んでくる現代のSNSの仕組みに、息苦しさを覚えている人も多いはずだ。日本だけに限らず海外でも、SNSで着飾った自分を表現することに明け暮れ、「自分の居場所を見つけなければ」というプレッシャーから病んでしまう人が増殖しているという。「承認欲求とどう向き合うか」といった諸問題は、現代病の一つとも言えるのかもしれない。
そんな、自分自身の承認欲求に振り回され、不安や劣等感から逃れられないという人にぜひ読んでもらいたいのが、エッセイ本『私の居場所が見つからない。』(ダイヤモンド社)だ。著者の川代紗生さんは、本書で承認欲求との8年に及ぶ闘いを、12万字に渡って綴っている。「承認欲求」とは果たして何なのか? 現代社会に蠢く新たな病について考察した当エッセイの発売を記念し、今回は、未収録エッセイの一部を抜粋・編集して紹介する。

誰かに傷つけられたとき、心は自分のものではなくなっているPhoto: Adobe Stock

他人に支配された心を、どう取り戻すか?

誰かに(あるいは、何かに)傷つけられたとき、心は自分のものではなくなっている。誰かを傷つけるということは、相手の心を支配するということだ。柔らかい心の表面に一度傷がつくと、その傷を修復する方法ばかり考えるようになる。気がつけば、「そんなにひどいことを言われるほど、私は悪いことをしてしまったんだろうか」と、傷つけてきた相手との関係を修復するための方法を考えるようになってしまう。一度他人に支配された心は、なかなか元には戻ってくれない。

当然のことながら、一度ついた傷が完全に癒えるのには途方もない時間がかかる。癒える日がくるのかどうかもわからない。ジュクジュクとにぶく疼くその箇所と真正面から向き合うのにも、エネルギーがいる。疲れる。そういうときほど、人生が危うい方向へ引っ張られそうになる。どうやって立ち向かえばいいのだろうと、いつも悶々としてしまう。

課題解決第一の実践的思考が危うい理由

自分自身の心を少しでも楽な方向へ向かわせるために、「自分は傷ついていない」という感情を捏造することもあるよなあ、と思う。「認知的不協和」という言葉が心理学にもあるけれど、あまりに理不尽な状況や納得のいかない出来事がやってくると、それを正当化するために「傷つかなかった」という意味づけをしたくなってしまう。辛かった経験を「でも、あの出来事があったから」とか、「あれがあったからこそ、私は成長できた」とか、その事象に対して「意味」を付与したくなってしまうのだ。

前を向くためのモチベーションとして、その意味づけが効果的にはたらくことも多い。私も、あえてポジティブな意味づけをして自分自身を納得させることが多々ある。そうしないことには生きていけないし、いちいち小さなことで悩みまくっていたら身が持たないからだ。

「いつまでも悩んでたって仕方ない。次行こ、次!」とスッと切り替え、すぐさま状況を改善させるための行動をとれる人のほうが、いわゆる「成功」には近づきやすいのだろう。

でも、「傷を見ない」あるいは「傷を受け入れない」という課題解決第一の実践的思考はときに、私たちの視界をひどく曇らせる。やっぱりさ、何かに対してモヤモヤしているとき、「課題は解決した」と思った方が安心するし、納得するのだ。仮の到着地点だったとしても、何かしらに「着陸した」という感覚がないと、不安になる。その傷と共存し、いつになったら地上に足を下ろせるのかわからない状態の中、フワフワと空中を漂い続けるのはなかなかの苦行だ。

けれどだからこそ、解決しないことによる不安を不安として、そのまま心の中に漂わせる勇気というのも、ときには必要なのだろうな、と思う。意味づけをせず、そのままの存在として、ただそれが「ある」ことを認識する。なかったことにしない。消そうとしない。肯定も否定もしない。そうしてそれをただ「持っている」状態のまま過ごしていると、ある日ふと、その不安とうまく折り合いをつけて共存できている自分に気がつく。意味づけをする必要もなく、無理にポジティブに捉える必要もない。でも、ひどく不快だったはずのその傷は、いつしか自分の一部として、違和感なく馴染むようになっている。