さらに、反論できない役人を何時間も拘束してつるし上げる「野党ヒアリング」は、格好の「見せ場」として使われた(筆者の先輩や同期も、詳細に答えられる立場にないにもかかわらず「悪役」に仕立て上げられ、理由なくどう喝されていた。その場面を、動画を通して見たときは心が痛んだ)。提案型への転換を図ろうとしたのは、そんなことでは支持は頭打ち、政権交代なんて夢のまた夢とでも思ったからなのだろう。

 確かに、故なきどう喝やつるし上げ、過剰なスキャンダル追及はもってのほかであり、国会活動として妥当な範囲を逸脱していることもあるだろうが、本来野党の役割は、政府・与党を追及すること、政府・与党が示した法案や予算案についてその問題点を明らかにして、それを正すよう求めること、何が問題で、わが国の社会経済にどのような影響を与え得るのかを明らかにすること、そして、問題点を解決するには何をすればいいのかを示すこと、である(最後の問題点の解決には、いわゆる対案だけではなく、法案そのものの廃案も含まれる)。

立憲民主党「泉健太体制」は
野党の役割を果たせているのか

 こうした役割を泉健太体制の立憲民主党は果たせていただろうか。筆者の見るところ、全くではないものの、果たせていたとは言い難い状況だったように思われる。岸田政権は参院選を控えて徹底した「安全運転」を行い、凪(なぎ)の状態を保つことを心掛けていた。ならば野党側が批判・追及という風を起こして波を立てればよかったのだが、それをほとんどしなかった。したがって、先の通常国会では、特定の法案や争点に関して国会の審議の状況が連日伝えられるようなことはなかった。

 これで参院選へ突入であるから、今回の選挙結果はさもありなんであろう。

 そもそも「提案型」とは、聞こえはいいが、ややもすると単なる与党への迎合になりかねない。筆者はその姿をかつて「第三極」において間近に見てきた。当時、みんなの党はまさにこの「提案型」を標榜し、国会の質疑においては「提案型」の質問が心掛けられたが、首相所信や施政方針に対する代表質問のような、まさしく「見せ場」を除いて、穏やかに追及するか、与党にすり寄るかのような、「提案型」と称した質問が多く見られた。

 その「提案」が採用されたとすることをもって、ある種の「成果」とするがごとき風潮も見られた。そもそもその「提案」も与党側が採用可能な範囲のものであり、筆者の目には迎合としか映らなかった(一方で、参院経由で国会に提出された議員立法は、ほとんどが与党が採用困難な「高めの球」ばかりであった)。

 先の通常国会における泉健太体制下の立憲民主党は、まるで迎合を「提案」と言い換えていたかつてのみんなの党のようであった。それでもみんなの党は政策の柱が分かりやすく立っていたので支持を集めたが、現在の立憲民主党は、それすらも分かりにくい。それでは、今後もひたすら埋没への道を歩むだけであろう。