壁を超えたら人生で一番幸せな20年が待っていると説く『80歳の壁』が話題になっている今、ぜひ参考にしたいのが、元会社員で『島耕作』シリーズや『黄昏流星群』など数々のヒット作で悲喜こもごもの人生模様を描いてきた漫画家・弘兼憲史氏の著書『死ぬまで上機嫌。』(ダイヤモンド社)だ。弘兼氏のさまざまな経験・知見をもとに、死ぬまで上機嫌に人生を謳歌するコツを説いている。
現役世代も、いずれ訪れる70代、80代を見据えて生きることは有益だ。コロナ禍で「いつ死んでもおかしくない」という状況を目の当たりにして、どのように「今を生きる」かは、世代を問わず、誰にとっても大事な課題なのだ。人生には悩みもあれば、不満もあるが、それでも人生を楽しむには“考え方のコツ”が要る。本書には、そのヒントが満載だ。
※本稿は、『死ぬまで上機嫌。』より一部を抜粋・編集したものです。

【漫画家・弘兼憲史が教える】<br />死んだら“葬式も戒名もいらない”と断言するワケ作:弘兼憲史 「その日まで、いつもニコニコ、従わず」

葬式は残された人たちのもの

僕は無宗教で不信心な人間です。葬式のような宗教的イベントにも無関心です。

これまで僕は、作品の中で葬式のシーンをたびたび描いてきました。夫を失って涙を流す妻、遺影を抱えて気丈に振る舞う娘、会葬者を前に挨拶をする息子……。そんなシーンは情感たっぷりに描写できるのですが、こと自分の葬式となると、どうにもピンときません

葬式は、物故者ではなく残された人たちのために行うイベント。そこに関わる人には、自分の死に向けて覚悟を新たにしたり、仕事の関係者とお互いの健康を確かめ合ったり、なんらかの意味があります。

戒名もいらない

だから、声高に「オレの葬式なんてやるな」と訴えるつもりはありません。自分では「死んだらすべてが終わり」と割り切って考えているので、葬式なんてしてもらわなくても構わないのですが、世間がそれを許さない可能性はあります。

「葬式はやりたい人がやればいいんじゃないですか」というくらいのスタンスです。本音をいうと「戒名もいらないのにな」と思っています。死んだあとに何十万円というお金と引き換えに、お寺から戒名をもらったところでどうなんでしょう。

そんなお金を家族に出してもらうくらいなら、生きているうちに美味しいものを食べたい。もしくは、後に残った家族が豪勢な焼き肉でも食べればいいと思ってしまいます。やっぱり現実的ですね。

宗教やお寺の社会的役割

誤解がないように繰り返しますが、僕は宗教やお寺の存在まで否定しているわけではありません。その昔、お寺は地域のコミュニティとして重要な役割を果たしていました。

お坊さんを中心に、地域の人がお菓子を持ち寄って集まり、縁側でお茶を飲みながら話をする。そんな交流の場として機能していました。その後、そうした場が病院の待合室に移行し、さらに公園や空き地での朝のラジオ体操の場に移行してきたため、相対的にお寺の存在感が薄れてしまいました。

それでも、お寺の存在を心のよりどころにしている人は一定数いるはずです。子どももお坊さんからお説教を聞いたりして、「やっていいこと・わるいこと」を学ぶ教育的な意義も大きかったのでしょう。

そうした歴史的な意義とか、今もお寺を大切に守っている人たちを尊重したうえで、あくまでも僕個人は「葬式も戒名もいらない」と思っているだけです。

葬式は残された家族が決める問題

自分の死後のお葬式や戒名について気になる人は、家族と話し合っておくのもいいでしょう。信心深い人は、お寺と宗旨を大切にすればいいのです。立派なお葬式を上げたければ、それもまたよしです。

最近では、葬式の規模を小さくしたいという需要が増えているようです。長生きをすると参列者も少なくなるので、限られた近親者で静かに故人を弔うかたちが取られているようです。

家族だけで行う「家族葬」(密葬)、通夜や告別式などのセレモニーは行わず、自宅や病院から遺体を直接火葬場に運ぶ「直葬」を選ぶケースも目立つようになりました。葬式にも選択肢が広がっているのですね。

最終的にどんな葬式を執り行うかは、残された家族が決める問題です。ただ、生前に本人の希望するところを伝えておけば、家族の参考になると思います。【次回へ続く】

※本稿は、『死ぬまで上機嫌。』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。