それなのに、奇妙な性善説のせいで、世の中は近すぎる距離で「閉ざされて生きるようなしくみができている」。日本では特に戦後、人は家庭、会社、学校の3領域に閉じ込められていた。それが90年代あたりになってから、家庭を持たない人が増え、終身雇用も少なくなり、不登校も増えた。つまり、「家庭、会社、学校の3つの領域から人が降りはじめたのだ」。人びとはきつくて耐えられず、いわば「沈黙の革命」を起こしたといえる。

 だが、世の中にはこの3領域以外の居場所が育っていなかった。孤立、ひきこもりの問題もそのせいだろう。著者はそのために、「社会に適応できない/しない人のための居場所」を作った。少し離れた、流動的なつながりがたくさんできることで、閉ざされて密着している人間の世界を外から崩してやりたい。それが著者の願いだ。

【必読ポイント!】
◆ 友人から一歩離れる
◇「人からどう思われるか」を気にしなくて済む場所へ

 著者が日記につづった人間関係のことの大部分は、「友人」に関することだった。友人というよりは、家族でも恋人でもない、まわりにいる大勢の人たちに関することだ。

 視線の密度の濃い高校の教室で、人目を気にしすぎる病に罹ってしまった。フリーライターになり、教室やオフィスのような「人の詰まった」環境から離れ、話の合う友だちと出会いやすくなったことで、気づけば病は消えていた。

 人目が多く人間関係が固定されている場所にいると、「どう思われるか」に振り回されがちになる。そして、否定的な視線に満ちている場所では、さらに人目を気にすることになり、心の負担も大きくなる。

 集団とは「みんな同じ」を強いるところだ。問題を解決するには、集団から離れた方がいい。あらかじめ、楽に集団を変えられるような準備をしておこう。“人の詰まった箱”のような場所は、そもそも人間に合っていないのではないだろうか。その箱に疲れる人には、オプションを用意して当然だ。

 やさしい視線のある場所の、やさしい、ゆるい人間関係に乗り換えることだ。人の目に服従することなく、主体的に生きられれば、生きている感覚が違ってくる。

◇「みんなとちょっと違う人」でいい

 あなたが新しく集団に入ったとする。そこで過ごすうち、何を言えば好感を持たれ、何を言えば関心を持たれないのかがわかってくる。そうなると、好感を持たれそうなことをやりたくならないだろうか。それが自分のやりたいことではなく、無理に合わせているのだとしたら、どんどん自分を失っていくことになる。