2002年10月9日にスウェーデン・ストックホルムで行われたノーベル経済学賞の発表の様子2002年10月9日にスウェーデン・ストックホルムで行われたノーベル経済学賞の発表の様子 Photo:AFP=JIJI

心理学者のダニエル・カーネマンが2002年にノーベル経済学賞を受賞し、損失回避性は広く知られるようになった。ところが、最近はその効果に疑念が出ている。損失回避性は信頼できるのか、行動経済学会副会長の川越敏司教授に聞いた。(聞き手/ダイヤモンド編集部 永吉泰貴)

異端中の異端だった行動経済学
再現性の批判が噴出した背景とは

 2002年のダニエル・カーネマンがノーベル経済学賞を受賞し、一躍有名になった行動経済学の「損失回避性」。インタビューに入る前に、分かりやすい実験をしてみよう。

 ここに、50%の確率で3000円を受け取ることができるが、50%の確率で3000円を支払わないといけないくじがあるとしよう。あなたは、このくじをもらうだろうか。

 たいていの人は、「もらわない」と答えるというのが通説だ。もらわないという人は、3000円を受け取るうれしさよりも、3000円を失うつらさの方が大きいと感じたはずだ。この傾向を損失回避性と呼ぶ(小川一仁、川越敏司、佐々木俊一郎『実験ミクロ経済学』東洋経済新報社の事例を引用)。

 ところが、近年では損失回避性の効果に疑念が出ているのだ。損失回避を活用する企業は増えているが、もはや使えなくなってしまうのか。真相を、川越敏司教授に聞いた。

――そもそも、行動経済学が台頭した背景は何ですか。

 対立していた経済学と心理学、両陣営から受け入れられたことです。伝統的な経済学は、利己性や合理性を前提にしていました。一方、心理学は、経済学が前提とする人間は現実にはいないと言い続けてきました。それに対して経済学は、心理学の利己性と経済学の利己性は違うと言い返します。話が全くかみ合っていなかったわけです。

 そこで台頭したのが行動経済学です。伝統的な経済学の理論に基づいて、利己性や合理性が成り立たないケースもあると主張しました。利己性を否定するものとして利他性、合理性を否定するものとして限定合理性があり、それを理論に基づいて実験したのです。そこが、経済学の陣営からも、心理学の陣営からも受け入れられた理由です。

――ところが最近になって、行動経済学は使えないという声が大きくなっています。何が起こっているのでしょうか。

 そもそも行動経済学は、始まった頃から受け入れられていませんでした。

 行動経済学は、ダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーが1970年代頃に始めました。二人が生み出したのがプロスペクト理論です。損失回避性も含まれます。

 当時は異端中の異端で、特に日本では相手にされませんでした。私が学生時代だった80年代や90年代は、プロスペクト理論を使うなというのが常識です。その後、約10年おきに、行動経済学を巡って大きな論争がありました。

 例えば、ジェイソン・フレハさんの「行動経済学の死」の10年ぐらい前には、神経経済学がブームになり、意思決定をする人間の脳の活動を調べる研究がありました。脳の中に他人を思いやる仕組みがあれば、経済学が今まで言ってきたことは間違いだということになります。行動経済学にとってはうれしいニュースでした。

 ただし、経済学からすれば、それは社会全体の動きと何の関係があるのか、となります。一人一人の脳の中身まで調べなくても、社会全体の問題は解決できるということです。これに対し、一人一人の判断が分からなければ、社会全体のモデルは作れないという反論がされます。

 その後、15年頃から心理学で、教科書に載っているような典型的な実験結果の大部分が再現できないと指摘されました。多くの科学者からなる「オープン・サイエンス・コラボレーション」が再試験をすると、3~4割ほどしか再現できなかったのです。

 この流れで、行動経済学でも再試験をする研究が出ました。すると、6割ほどしか再現できませんでした。さらに、ダン・アリエリーさん(編集部注:日本でも大ベストセラーになった『予想どおりに不合理』の著者)自身がデータをねつ造するようなことが同じ時期にありました。

 行動経済学の理論的な土台の部分にも論争があった中で、唯一の強みであった実験にも、ねつ造や再現できない問題があったということです。

川越教授が挙げたフレハ氏の「行動経済学の死」は、損失回避性すら使い物にならないという衝撃的な内容で、日本でも話題となった。次ページでは、損失回避性の実験が批判される理由と、川越教授自身の見解、さらには損失回避性を巡る主張の問題点について明快に語ってもらった。