中内功

「週刊ダイヤモンド」1987年4月11日号から始まった連載企画「ザ・経営者」は、戦後の産業社会を形成した経営者へのインタビューを通して、その人間性とビジネス哲学の両面から経営者のトータルな人間像を探求しようというものだった。

「(1)若い頃どんな夢を描き、どのように社会にコミットしようとしたのか」「(2)経済人として社会や時代へどう関わってきたのか、そして自分の仕事をどのように捉えているか」「(3)改めて今人生を振り返ってみると、現在の日本や人間の生き方がどのように見えているか」「(4)次世代の経営者たちへのアドバイス」の四つの質問を軸として、インタビュアーは比較文化精神医学を専門とする、精神科医で作家の野田正彰氏が務めた。

 第1回は、ダイエー(現イオン)創業者の中内功だった。戦後の日本を代表する経営者の一人で、80年には日本の小売業としては初めて、年間売り上げ1兆円を達成した「流通業界の風雲児」だ。

 第2次世界大戦でフィリピン戦線から復員した中内は、神戸市兵庫区にあった実家のサカエ薬局で勤務した後、57年に大阪市・千林で「主婦の店ダイエー薬局」を開業。さらに薬局から食料品店へと業態を変え、チェーンストアの先駆けとして全国へ拡大していった。

 80年代後半には、本業である小売業の拡大のみならず、プロ野球の南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)の買収や、流通科学大学の設立など、事業の多角化を推し進めたが、そうした積極攻勢があだとなる。90年代に入ると、業態転換の遅れによる事業不振に加え、バブル崩壊に伴う不動産の含み損が財務をむしばむ。2004年に産業再生機構から支援を受け、最終的にはイオンの完全子会社となった。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)

戦争の極限状態では
楽観的になるしかないですな

「週刊ダイヤモンド」1987年4月11日1987年4月11日号より

――中内さんは、大正11年に大阪で生まれ、父親が薬屋を開いた神戸に5歳で移り住む。

【幼年期――不況の世の中殺伐としとりました】

 1929年の暗い金曜日(10月24日、ニューヨーク株式市場が大暴落して世界大恐慌を呼んだ)があったのが、私が7歳のときでしたから、ものすごい不況の中の庶民の生活いうのを、見てきたんですわ。それに、3つぐらいから家が商売してましたから、まあ、今のサラリーマンとはだいぶ違いますな。毎日、夕方になると神戸港の沖仲仕や人夫が、焼酎飲んでけんかしてね、風呂へ行けば男はみんな、くりからもんもんでね、こういうような環境で、世の中殺伐とした中で育ってきたわけですから。

 ただ、商売いうのは本当にありがたい、雨が降っても、日が照っても買いにきてくれて、そこから飯の種が出てくる。底が見えてるギョウベツ、米を入れておくブリキの缶ですな、毎日それを見ながら、そう思うとりましたわ。