少年時代を台湾で過ごし、旧制台北高等学校では卒業研究として、マンゴーとリンゴを接ぎ木してマンゴーの品種改良に取り組んだ。熱帯の果物であるマンゴーと北方のリンゴを掛け合わせるのは至難の業だが、研究の結果、見事に成功させ、リンゴのような形をしたマンゴー「リンゴマンゴー」を生み出した(いわゆるアップルマンゴーとは別)。
このとき佐々木は、「異質なものが融合すれば、必ず新たな価値が生まれる」という信念を得たという。その確信は「共創」という言葉で後々語られるようになる。
京都帝国大学を卒業し、川西機械製作所、神戸工業(共に現デンソーテン)を経て、1964年に早川電機工業(現シャープ)に転職する。当時はまだ珍しかったトランジスタの量産化を先導し、電卓の小型化と低価格化、高性能化を推し進めた。
『ロケット・ササキ――ジョブズが憧れた伝説のエンジニア・佐々木正』(大西康之著・新潮社)には、佐々木のシャープでの功績以外のエピソードがふんだんに語られている。
中でも有名なのは、ソフトバンク創業者の孫正義との関係だろう。孫は79年、米カリフォルニア大学バークレー校在学中に開発した「音声機能付き電子翻訳機」を持って、シャープ中央研究所にいた佐々木の元を訪ねた。孫の才能を見込んだ佐々木は、研究資金としてポンと1億円を与えた。この出会いと資金がなければ今のソフトバンクはない。
佐々木は、若き日のスティーブ・ジョブズにも会っている。85年、ジョブズが自ら創業したアップルを追放されていた時期だ。佐々木はジョブズに自身の信条である「共創の哲学」を説いたという。「異質なものが融合すれば、必ず新たな価値が生まれる」という考えだ。電話とコンピューター、インターネットを融合させたiPhoneが登場するのはその後だが、佐々木のアドバイスが生かされた可能性は高い。
今回は、「週刊ダイヤモンド」94年8月27日号に掲載された佐々木のインタビューを紹介する。89年からシャープでは顧問に退き、94年5月に国際基盤材料研究所(ICMR)を設立したばかりのタイミングだ。その他、さまざまな要職に就き、技術王国を支える後進の育成にいそしんだが、2018年に104歳で生涯を閉じた。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)
若き日の孫正義に
1億円をポンとやった
――佐々木さんはソフトバンクの生みの親みたいな存在ですね。
創設者の孫(正義)君がそう言っているようですね。彼はバークレーの経済学部に入学したのですが、パソコンのソフトに夢中になりまして、在学時から会社をつくってやっとったんですよ。当時アメリカは、ソフトがどんどん出てきているときで、ビル・ゲイツや(スティーブ・)ジョブズと同じようにベンチャーで頑張っていたわけです。そこで彼が作ったのが日米の翻訳機なんですよ。これを製品化したいと、以前から面識のあった僕のところへ売り込みに来たわけです。
――シャープの液晶の研究所ですね。
風呂敷に包んで持ってね。僕は彼の才能を知っとったもんだから、シャープでやることにしたんです。それでできたのが翻訳機能の付いた電卓です。その後、彼はアメリカの会社をパートナーに任せて帰国し、ソフトバンクというベンチャービジネスを始めたんです。初めは彼の故郷に近い熊本でやったのですが、これはうまくいかなかった。情報というのは、人間や企業が栄えるための食糧と同じ、重要な栄養なんです。ところが当時、熊本の情報の密度は高くなかった。それで僕が「東京でやらなきゃ駄目だ」と言うと、3人で上京してきて再スタートしたんです。さて、そのためには1億の金が要るわけです。そこで僕は個人保証で銀行から1億借りて、ポンとやった。これで火が付いたんです。
――個人保証ですか。
形になっているものがないと金を貸してくれなかった時代ですからね。僕の資産を投げ出したといっても、成功したんだから何も問題はありません。僕は勝負できると思ったからやったまで。なのに彼は盛んに僕を「恩人だ」と言っている。
――なぜ、絶対に成功すると思ったのですか。