塩野義とエーザイPhoto:123RF
*本記事は医薬経済ONLINEからの転載です。

 程なく4年目に入ろうかという新型コロナウイルス禍は、愛国的な自己陶酔の中で直視を避けてきた日本の真の「実力」を白日の下に晒した。記憶にほとんど残っていない東京五輪の開・閉会式、前首相の柄にもない追善ポエムが英国のそれとの落差を印象付けた国葬、根拠のない期待論ばかりが年を重ねるごとに増すノーベル賞報道、そして底が抜けたような歴史的な為替の円安など、世界のスタンダードから転げ落ちるとはこういうことなのか、という醜い光景を幾度も見せられた。

 コロナ禍以前は欧米の同業と、規模を除けば遜色はないと胸を張っていた日本の製薬業界も例外ではない。例えば、このクスリこそが日本を救い、世界を助けるとばかりに喧伝された「アビガン」。子ども向けロボットアニメが頓に好むPKOもどきの雑なストーリーを、一部の保守層は狂信的に支持した。しかし結果は周知のとおり、無力で無残だった。血税を投入した国民からすれば、ほぼ詐欺紛いの結末としか言いようがない「大阪発ワクチン」の頓挫や、振り返るのも赤面する「イソジン」騒動というのもあった。

 これらに共通するのは、ポピュリスティックな権力者による思慮の浅いビッグマウスを、忖度集団が輔弼し、さらにメディアが無批判に拡声することによって、実力とはかけ離れたクスリの虚像が作られるという構図である。必然ながら説得力は、この罪深いトライアングルが顔を揃える国内でしか成立しない。国民を酔わせることが主目的ならば、それで十分なのであろう。

 しかも、現実と言質のギャップがやがて埋め合わせできなくなると、原因を外部環境の変化のせいにして、責任や総括から「逃げる」という点も一緒だった。そこには、日本の製薬関係者が世界とリレーションしていくうえで欠かすことができない科学への尊敬も、真理への謙虚さも不在である。

 こうした特異な言動の傾向を仮に“ABEしぐさ”と呼ぶならば、その汚染は新規参入組やベンチャーに留まらず、濃淡はあるものの、業界の老舗にも広まっているように感じられる。実力派トップの存在を背景に、無理筋感の強い新薬開発を推進し、結果的に、その会社の先人達が構築してきた「信頼」を棄損するというケースが目に付くようになっているのだ。