全世界で700万人に読まれたロングセラーシリーズの『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』(ワークマンパブリッシング著/千葉敏生訳)がダイヤモンド社から翻訳出版され、好評を博している。本村凌二氏(東京大学名誉教授)からも「人間が経験できるのはせいぜい100年ぐらい。でも、人類の文明史には5000年の経験がつまっている。わかりやすい世界史の学習は、読者の幸運である」と絶賛されている。その人気の理由は、カラフルで可愛いイラストで世界史の流れがつかめること。それに加えて、世界史のキーパーソンがきちんと押さえられていることも、大きな特徴となる。
今回は中華人民共和国を建国した毛沢東を取り上げる。「建国の父」として崇められる一方で、大虐殺を行った稀代の暴君ともされる毛沢東。その行動力の源はどこにあったのか。著述家・偉人研究家の真山知幸氏に寄稿していただいた。

毛沢東の「ヤバすぎる行動力」を培った意外な原点Photo: Adobe Stock

習近平が意識する「建国の父」

 2022年10月23日、中国では、第20期中央委員会第1回全体会議が開催。習近平主席は、中国共産党のトップとして、総書記に3選され、引き続き国家主席を務めることとなりました。

 同じ人物が、国家主席を3期も務めるのは「中国建国の父」と称された毛沢東以来のことです。

 3期目に入った習主席が足を運んだのが、内陸部の陝西省延安です。ここはかつて共産党が拠点を置いた「革命の聖地」。毛沢東ゆかりの地を訪ねることで、習主席は自身を毛沢東と並び立つ存在として、対外的にアピールしたのです。

 今でもなお、大きな影響力を持つ毛沢東とは一体、どのような人物だったのでしょうか。

農民であり兵士

 毛沢東は1893年、中国南部の湖南省湘潭(しょうたん)県にある韶山(しょうざん)で、農家の三男として生まれました。13歳の頃には、すでに一人前の百姓として働いていたとされています。

 労働の合間に、あちこちから本を借りてきては、読書に励んだ毛沢東。16歳で故郷の湘潭から長沙へと出ていくと、各地の学校を転々とする日々を送りました。

 1911年、孫文らによる辛亥革命が勃発すると、18才の毛沢東も、湖南駐屯の軍に入隊します。清朝が打倒されたのちは、学校に復帰しました。

 百姓でありながら、軍隊も経験した毛沢東。のちに中華人民共和国を建設したときに、毛沢東は「人間は、労働者、農民、兵士を兼ねた存在であるべきだ」と主張します。

 その理想は、自身が紆余曲折し、いろんな立場を経験したことと無関係ではないでしょう。

恩師との出会い

 20歳のときに、毛沢東は湖南省立第一師範学校に入学。ようやく腰を落ち着けることになります。

 図書館で独学した時期もある毛沢東にとって、第一師範学校での学校生活は刺激的なものでした。

 自然科学や写生の授業に苦戦しながらも、古文と社会科学ではよい教授陣に恵まれたようです。

 毛沢東は、自分で「古文は得意だ」と思っていましたが、教授から「ジャーナリストの文章のようだ」と指摘されて、一から勉強し直すことになりました。

 このときに徹底的に古典を学んだ経験から、毛沢東は生涯にわたって詩を愛するようになります。多忙を極める革命期においても、毛沢東は詩をつくり続けました。

 広い意味で詩に属する作品は、実に50編にも及んでいます。 

 毛沢東は第一師範学校で、恩師との出会いも果たしています。「修身」と「教育学」を担当した楊昌済です。

偉人から学ぶ

 楊昌済は、日本やイギリスでの留学経験を持ち、ドイツにも滞在していました。講義はそんな海外経験が生かされたもので、古今東西の名著や偉人の言葉から、エッセンスを抜き出すというものでした。

 なかでも中国清代末期の軍人である曽国藩の言葉を頻繁に取り上げたそうです。言葉の解説に日本の偉人を引き合いに出すこともありました。

 例えば、曽国藩の日記から「架空の事をしない」という言葉に着目して、こんな解説を行ったこともありました。

「着実に一歩一歩、仕事をするということである。日本人の福沢諭吉が慶応大学を設立したように、教育を天職とし、名を求めず、利を求めない」

 毛沢東はのちに「近い時代では、曽国藩のみを尊敬する」と述べています。それだけ恩師の影響を色濃く受けたということでしょう。

退学を決意

 楊昌済のもとで学ぶうちに、毛沢東の心は奮い立ちます。ある日曜日、毛沢東は恩師の自宅を訪問すると、いきなり「退学するつもりです」と打ち明けました。

 理由を聞けば「社会には解決すべき問題が山積しており、それを解決したい」と言います。はやく世の中に出たいという毛沢東に対して、楊昌済はこうたしなめています。

「まず、基礎をつくれ。問題を独力で解決しようとせず、友人をつくれ。共同の力を発揮するのが、大事である」

 恩師の言葉を受けて、毛沢東はすぐさま市内のポスターに「友を求む」というポスターを貼りまくります。

 応募はたったの5名でしたが、毛沢東にとってはかけがえのない仲間を得ることができました。それから3年が経った1918年には、新民学会を発足。21名のメンバーを集めています。

 独力では事を成し遂げられない。「共同の力」を持つべくネットワークをつくる。革命家として極めて重要な心構えを、毛沢東は楊昌済に教えられたのです。

中国共産党の創立メンバーに

 学校を卒業すると、毛沢東は楊昌済のおかげで、北京大学の図書館で職を得ることができました。図書館に勤めながらも、聴講生として学び続けることになります。

 その後は、歴史教師や小学校校長を経て1921年、28歳のときに中国共産党が成立すると、毛沢東はこれに参加。党の創立者の一人になります。

 党の公務に没頭するなか、この年には、恩師の娘である楊開慧と結婚もしています。

 段々と、戦略家として才を示して注目を集めて、頭角を現した毛沢東。井岡山(せいこうざん)を革命の根拠地として、労農紅軍を組織すると、ソビエト政権樹立のために戦っています。

 1931年には、首都を江西省の瑞金(ずいきん)に置く「中華ソビエト共和国臨時政府」が樹立。毛沢東はその主席となりました。

56歳で「建国の父」

 冒頭では、習近平が自身を毛沢東になぞらえていると書きました。習主席が訪れた延安の地に、共産党の拠点が移されるのは1937年のことです。

 蒋介石率いる国民政府軍の攻撃を避けて、共産党は首都の瑞金を放棄。「長征」と呼ばれる1万2500キロメートルの難行軍の末、延安を拠点に捲土重来が図られることになります。

 1949年、56歳のときに北京で「中華人民共和国」の建国を宣言する日まで、毛沢東はひたすら走り続けたといってよいでしょう。

 その間には、農村ではなく都市部を中心に革命を起こそうとする党本部と意見を違えて、「観察処分」という、ほぼ除籍寸前まで追い込まれたこともあります。

 しかし、困難が降りかかるたびに、毛沢東は同志を集めて復活の狼煙をあげました。「共同の力を発揮するのが、大事である」という恩師の言葉が、いつも胸にあったからに違いありません。