多数の餓死者を出した「大躍進政策」
中華人民共和国の建国から約10年後、65歳の毛沢東は、のちに自身の歴史的評価を大きく下落させる暴挙に出ます。1958年に「大躍進政策」をぶち上げたのです。
それは「第2次5カ年計画」の初年度に打ち出された政策で、農業と工業の大増産をめざすというもの。掲げられた目標は、年間の工業成長率26~32%、農業成長率13~16%という、あまりにも非現実的なものでした。
その手法として、毛沢東はいたるところで小型の製鉄所を建設。農民を総動員して鉄鋼生産にあたらせました。軍事力に関連する重工業こそが国家の生産力の根源だと、毛沢東は考えたのです。
しかし、粗悪な鉄は使い物にならないうえに、森林伐採による環境破壊によって、大洪水や干ばつが引き起こされます。
毛沢東の大躍進政策は、ただひたすら農村経済を混乱させました。食糧不足によって餓死者が続出。その数は1500万人とも、2000万人ともいわれています。
壮大すぎた理想
自力で社会主義国家を建設する――。
毛沢東は、脳内で作り上げたユートピアに固執しました。その原型は、第一師範学校を卒業した年に、すでにできていたものです。
当時の毛沢東は、日本で作家の武者小路実篤が展開した「新しき村」運動のことを耳にします。それは、階級格差や過重労働をなくして、農業を主とした自給自足に近い暮らしを行うというものでした。
大いに刺激を受けた毛沢東は友人を巻き込み、岳麗山に「新しき村」を造ろうとします。ところが、農民たちの説得は難航。毛沢東はわずか1日でプロジェクトに見切りをつけています。
毛沢東は、あのときに叶わなかった夢を国家レベルで実現させようと躍起になりました。その結果、自滅の道へと歩むことになったのです。
「文化大革命」で中国社会を壊滅
大躍進政策が無残な結果に終わった毛沢東ですが、責任をとらされて国家主席を退いてもなお、まだ革命を諦めませんでした。
1966年には、権力奪回のために「文化大革命」を展開。全国の若者たちをたきつけながら、多くの知識人や政治家たちを迫害しました。
この文化大革命によって、170万人以上の国民が殺害されたといわれています。中国に伝わってきた古い思想や文化も否定されて、多くの文化財が破壊されることになりました。
毛沢東は1976年に82歳で死去。天安門広場で国葬によって見送られています。
世界史の人物たちの原点を探る
中華人民共和国の「建国の父」でありながら、理想に固執するあまり、膨大な犠牲者を出した毛沢東。その原点は、第一師範学校時代に形作られたものだといってよいでしょう。
もしかしたら、20代前半までに身につけた価値観や果たせなかった理想が、その後の生涯の方向性を決定づけるのかもしれません。
『14歳からの世界史』で時代ごと国ごとのキーパーソンを押さえたうで、気になる人物の10代、20代を調べてみてください。その人物の原点が明らかになり、また違った人物像を見つけ出すことができるでしょう。
【参考文献】
竹内実『毛沢東』 (岩波新書)
宇野重昭『人と思想33 毛沢東』(清水書院)
ユン・チアン著、ジョン・ハリデイ著『真説 毛沢東 誰も知らなかった実像』(土屋京子訳・講談社+α文庫)