日本では、人口減少が始まって10年以上がたち、減少幅は加速度がつきつつあります。一方、2022年、世界人口は80億人を突破したと国連が発表しました。70億人からわずか11年、このまま人間が増えると、環境問題、食料問題をはじめ「地球は大丈夫なのか?」と懸念する声にあふれています。このアンバランスを日本人はどう考えればいいのでしょうか? そして退職した高齢者の年金負担は年々重くなり、働き手の不足も顕著になる一方なのに、なぜ日本は移民を受け入れないのかと不思議に思う人も多くなっています。『米国防総省・人口統計コンサルタントの 人類超長期予測』(ジェニファー・D・シュバ著、ダイヤモンド社刊)を刊行したばかりの、世界の人口統計学の権威の見方を紹介します。(訳:栗木さつき)
日本は移民に門戸を開くべきだろうか
人口高齢化が意味するところについて、最近、二つの乱暴な主張をよく耳にする。一つは、中国への懸念だ。
私が政策研究会で講演をすると、聴衆はたいてい、高齢者が増えているのだから、中国政府は高齢者に対してもっと手厚い支援に着手する必要に迫られるだろうと言い出す。だが、いまのところ中国では、農村部でも都市部でも、政府も子どもも親も、高齢者の面倒を見る責任は国ではなく、家族にあると考えている。なぜなら、中国は中央集権国家であるため、世論が政策決定に及ぼす力が限られているからだ。
中国だけではない。人口高齢化に直面しているにもかかわらず、高齢者への社会保障や年金保障が貧弱な国はある。こうした国では、人口が高齢化するにつれて財政的な負担が減っていくのだから、国にとってはありがたい話だ。一方、何の支援も得られなかったり、貧困に苦しんだりする人が増えるのだから、高齢者にとってはつらい話だ。
もう一つの主張は、人口が高齢化しているうえに減少している国々は、移民への門戸を開く必要に迫られるだろうというものだ。この主張に真実味はあるのだろうか? 人口が高齢化し、労働力人口が減った国の目下の懸念は、社会保障や医療などの手厚い支援を受けている高齢者全員を支えるだけの、労働力が確保できなくなることだ。この懸念は当然のことで(とはいえ、これまで見てきたように、計算はそれほど単純ではない)、多くの国が外部の人間、つまり移民を受け入れて労働力人口を補う方策を実施してきた。だが、例外なくすべての国がそうしたわけではない。
日本は特定技能を持つごく少数の外国人に在留資格を与えているが、労働力人口を補うために文化の異なる国外の人間を大量に受け入れて混乱を招くリスクを取るよりは、むしろ縮小する道を選択している。日本では、人口のわずか1.7%(約220万人)が外国人または外国生まれである。このままのペースでいくと、2060年、日本には退職した高齢者2人に対して労働者が3人しかいないという割合になるが、たとえ労働力人口が縮小していても、移民に門戸を開放する必要に迫られてはいないということだろう。
日本にはいくつか選択肢があり、その一つは外国人労働者を受け入れるかわりに、民族の均一性を維持することだ―そしていまのところ、それが最優先となっているらしい。
2010年、朝日新聞は世論調査を実施し、「将来、少子化が続いて人口が減り、経済の規模を維持できなくなった場合、外国からの移民を幅広く受け入れることに賛成ですか。反対ですか」と質問したところ、回答者の26%が賛成し、65%が反対した。だが、それがどんなものであれ、選択をすれば結果が伴う。特定技能を持たない外国人労働者に就労ビザを発行しても、2018年11月の時点で、日本では求職者100人当たり163件の求人があった。
当時の首相、故・安倍晋三氏は「政府としては、いわゆる移民政策をとることは考えていない……深刻な人手不足に対応するため、真に必要な業種に限り、一定の専門性技能を有し即戦力となる外国人材を、期限を付して、わが国に受け入れようとするものだ」と述べた。
日本は民族的にはほぼ均一性を維持できているにもかかわらず、国民の大半はこの外国人雇用対策を支持している。この対策が一時的なものであることを政府が強調したためだろうが、一時的な措置が永遠に続いた場合、政治にも社会にも、さまざまな影響が及ぶことになるだろう。
移民を受け入れて人口高齢化を相殺することはできても、逆転させることはできない。そして大量の移民が殺到すれば、それ自体が社会的な課題をもたらす。
家族と国家の関係は世界各地にさまざまなモデルがあり、人口高齢化が社会にもたらす影響もさまざまだ。それでも、どの国や文化においても、高齢者は誰しも晩年を迎えれば社会からの支援を必要とするし、誰かがその支援を提供しなければならない。さもなければ、高齢者は見捨てられてしまう。
多世代が同居する住宅に補助金を出したり、高齢者の介護にあたる労働者の移民を受け入れたりすれば、ある程度の穴埋めはできるだろうが、いま必要なのはその場しのぎの処置ではなく、包括的かつ革新的な政策による解決である。