中国で「新たな天安門事件」は起きないPhoto:Kevin Frayer/gettyimages

――著者のアンドリュー・J・ネイサン氏はコロンビア大学政治学教授。「Chinese Democracy(中国の民主主義)」、「The Tiananmen Papers(邦訳『天安門文書』)」、「China’s Search for Security(邦訳『中国安全保障全史――万里の長城と無人の要塞』)」、「How East Asians View Democracy(東アジアの人々は民主主義をどのように見ているのか)」など多数の著書・共著書がある。

***

 1989年4月、北京の天安門広場にある人民大会堂前で数百人の大学生が行っていた平和的な抗議活動が4週間半の間に膨れ上がり、大規模デモに発展した。デモには学生や労働者に加え、政府や党の関係者も参加した。北京以外でも300を超える中国各地の都市で同様の抗議デモが発生した。

 対照的に、新型コロナウイルスの感染対策に反対する最近のデモは、最初の数日こそ猛然と抵抗を示したものの、いまや勢いを失いつつある。3年続く厳格なコロナ抑制策への国民の怒りは根深くかつ広範囲に広がっているが、習近平国家主席は30年前の指導者よりはるかに厳しく国家を支配している。

 1989年のデモが危機の規模にまで拡大したのは、中国共産党指導部が割れていたからだ。党総書記の趙紫陽氏は、学生は愛国心が強く、学生の改革要求は筋が通っていると考えた。趙氏には、学生を説得し、改革を約束してデモを平和裏に解散させたいという思いがあった。首相の李鵬氏は、隙を見せれば社会集団が次々と共産党に要求を突き付け、体制の終焉を招くと主張した。その他の指導者は趙氏に付く者と李氏に付く者とに分かれた。

 当局が議論を戦わせ、取り締まりが行われなかったため、市民はインフレや汚職、経済・政治改革の停滞への不満を訴えるまたとない機会を察知して、つかの間の自由に浮かれながら街頭に押し寄せた。長老の鄧小平氏が引退から復帰して軍による取り締まりを命じ、危機は終わった。北京では少なくとも数百人が死亡し――総数は今も分かっていない――、全国でも多くの人が命を落とした。