人的資本経営は、経営者だけの問題ではない。若手・中堅が今すぐ取り組むべき5つのこと

政府が掲げる経済政策「新しい資本主義」の中核に、「人への投資」の抜本強化がある。そこで企業に求められているのが、人的資本経営だ。従業員が持つ知識や能力を資本と捉えて投資し、中長期的に企業の価値を高めていこうという人的資本経営は、日本企業の未来を大きく左右する施策であるといっても過言ではない。
2022年10月23日に開催されたONE JAPAN CONFERENCE 2022では、『人材版伊藤レポート』の立役者である伊藤邦雄氏(一橋大学 名誉教授/CFO教育研究センター長)、企業トップとして人的資本経営に取り組みつづける澤田道隆氏(花王株式会社 取締役会長)、人的資本経営の実現に向けた検討会の委員を務める篠田真貴子氏(エール株式会社 取締役)をゲストに迎え、ONE JAPAN共同発起人・共同代表である濱松誠氏進行のもと、日本企業が人的資本経営に取り組む意義から、経営者だけでなく、若手・中堅社員が今から実践すべきことまでを議論した。(構成/矢野由起)

なぜ今、人を「資本」と捉えることが重要なのか?

濱松誠氏(以下濱松) まずは、『人材版伊藤レポート』を取りまとめられた伊藤さんに、人的資本経営が今必要とされる背景と重要性について伺いたいと思います。

人的資本経営は、経営者だけの問題ではない。若手・中堅が今すぐ取り組むべき5つのこと 伊藤 邦雄(いとう・くにお)
一橋大学 名誉教授/CFO教育研究センター長
一橋大学商学部卒業。博士(商学)。現在は同大CFO教育研究センター長、名誉教授。2014年、座長を務めた経済産業省の研究会「『持続的成長への競争力とインセンティブ~企業と投資家の望ましい関係構築~』プロジェクト」にて「伊藤レポート」を公表し、その後もコーポレートガバナンスや無形資産、ESGに関する各種政府委員会やプロジェクトに参画している。2020年9月には「人材版伊藤レポート」、2022年5月には「人材版伊藤レポート2.0」を公表し、日本企業に対し、持続的な企業価値の向上と人的資本の重要性を説いている。2022年8月に設立された「人的資本経営コンソーシアム」の会長を務める。「企業価値経営」(日本経済新聞出版)など著書多数。 写真:伊藤 淳

伊藤邦雄氏(以下伊藤) 現在も多くの企業が採用している雇用形態であるメンバーシップ型雇用が制度疲労を起こしている点に、私は着目しました。メンバーシップ型雇用は日本の経済成長を牽引してきた制度。しかし、世界的な従業員エンゲージメントの調査において、日本は最下位に近いのが現状です。日本人特有の謙虚さを差し引いても低い。この原因は、従来の雇用形態が人材についてファジーに捉え、「数」で判断してきた部分があるからだと考えています。

 人材は、適切な環境に置くことで価値を伸ばします。つまり「資源」ではなく「資本」なのです。資源と捉えると、人材=コストとなり管理したくなってしまいますが、資本であれば投資して価値を高めていこうと考えますよね。企業価値を決める鍵となる無形資産の中でも、人はいい意味で特殊です。だからこそ、企業には人的資本を高める経営をしていただきたいのです。

 また近年、キャリア選択の自律性・自立性に注目が集まっています。自分のキャリアを自律的に選んで決断し、そのキャリアに向けて自分に投資したいと考える人は増えているでしょう。しかしメンバーシップ型雇用では、キャリアを自律的に選ぶことすら難しいのが事実です。企業は社員の自発的学習を称賛しているでしょうか? 長期雇用により人材が固定し、賃金の上昇も難しかったのではないでしょうか? それによって事業の入れ替えも進まなかったことでしょう。また、経営層は今ある自社の企業文化が最高だと思い込んでいませんか? 日本企業はこのような点を省みて、現状を打破すべきだと思っています。企業文化ほど重要な無形資産はありません。その中核に「称賛の文化」「ポジティブな関係」そして「対話」を置くべきだというのが私の考えです。

 現在は、投資家も企業の人的資本に高い関心を持っています。投資家は、企業の経営戦略やESGの状況に基づいてキャッシュフローを予測し、投資価値を評価します。その経営を担うのは人材です。しかしこれまで、人材情報は投資家に開示されていませんでした。そのような状況下で企業を評価していたわけですから、いわゆる「ミッシングリンク」の状態になっていたんですね。欠けた輪は今後、人的資本の可視化によってつながり、より正確に価値を評価できるようになっていくでしょう。

濱松 人的資本経営の基本的な考え方や背景が理解できました。では篠田さんの視点から、人的資本経営のポイントを教えてください。

篠田真貴子氏(以下篠田) 私たちは今まさに、株主価値と従業員の幸せのベクトルが揃っていく変化の中にいます。上場企業あるいは上場を目指す企業は、企業価値を中長期的に高めていくことが企業としての成果指標であり、企業に対して全ステークホルダーが抱く未来への期待が企業価値となります。事業から生まれるであろう将来的なキャッシュフローを価値と考えるのです。そしてキャッシュがどれだけ生まれるかを予測する際に重要なのが、ESGです。

人的資本経営は、経営者だけの問題ではない。若手・中堅が今すぐ取り組むべき5つのこと篠田真貴子(しのだ・まきこ)
エール株式会社 取締役
社外人材によるオンライン1on1を通じて、組織改革を進める企業を支援している。2020年3月のエール参画以前は、日本長期信用銀行、マッキンゼー、ノバルティス、ネスレを経て、2008〜18年ほぼ日取締役CFO。慶應義塾大学経済学部卒、米ペンシルバニア大ウォートン校MBA、ジョンズ・ホプキンス大国際関係論修士。人と組織の関係や女性活躍に関心を寄せ続けている。株式会社メルカリ社外取締役、経済産業省 人的資本経営の実現に向けた検討会委員。『LISTEN――知性豊かで創造力がある人になれる』『ALLIANCE アライアンス――人と企業が信頼で結ばれる新しい雇用』監訳。 写真:伊藤 淳

 たとえば企業が営業活動をするにしても、環境(E)への配慮がなければいずれ立ち行かなくなりますし、ガバナンス(G)が機能していないようでは企業としての判断を誤りかねません。そして何より重要な要素がソーシャル(S)です。ニッセイアセットマネジメント株式会社が発行した「スチュワードシップレポート2020」によると、ESGそれぞれの評価のうち、投資パフォーマンスが最も高かったのはSに関する評価が高い銘柄群とのこと。Sへの施策を強化することが、結果的に企業価値を高めることにつながるわけです。しかし、EやGへの取り組みに比べ、ダイバーシティや女性活躍推進、労働環境改善といったSは即時に実践しづらいのが現状です。だからこそ、Sを強化することが大切なのです。

 20年ほど前の時代、投資家は「企業価値を上げるために社員の給料を下げろ」「人員を減らせ」と言ってきましたが、このレポートが示す通り、従業員の労働環境改善や働きがい向上に積極的な企業の価値が上がるのだと数字で証明されるようになりました。今の投資家は長期目線ですから、従業員に投資すれば10年単位でリターンが得られると考えるでしょう。すなわち、投資家の目指していることと従業員の幸せは同じ方向を向いてきているのです。

 ではどうすれば実現できるのか。これまでの組織は「正確かつ均質のものが大量にある状態」を目指していました。社員研修もすべて、個性あふれる皆さんを同じ形のブロックにするようなものでした。今後は、人間らしく一人ひとり違うことをしてもらい、それを束ねる組織になるよう、組織のOSをアップデートしていかなければなりません。人間らしさのポイントである「感情」を、感情的にならずに組織で扱えるようなOSとスキルが必要になってくるのです。