連合艦隊司令長官の
山本五十六が卒業生
戊辰戦争と太平洋戦争で、街が壊滅してしまった新潟県長岡市。それにめげず、県立長岡高校は1872年創立の、全国でも指折りの歴史と伝統を誇る。
米国との戦争は無謀と認識しつつ連合艦隊司令長官を命ぜられ真珠湾攻撃に踏み切った山本五十六が、この学校を代表する卒業生だ。
山本は旧長岡藩士の六男として生まれ、当時の父親の年齢から「五十六」(いそろく)と名付けられた。現在の長岡高校の前身である旧制新潟県立長岡中学を卒業後、海軍兵学校―海軍大学校と進み、米ハーバード大に留学した。長岡中学への母校愛が強く、計6回も講演会に出向いている。
1940年に海軍大将に任じられ、41年12月8日(日本時間)に連合艦隊司令長官として太平洋戦争を開始した。43年4月18日、南洋ブーゲンビル島上空で米軍により乗機が撃墜され戦死した。59歳だった。
43年6月5日、東京・日比谷公園で国葬が行われた。皇族華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前唯一の例だった。
山本五十六を主人公にした映画やテレビドラマは十数本も作られている。小説や評伝も10近い。国民的人気がすこぶる高かったことがうかがわれる。
作家の半藤一利も、先輩・山本五十六についての評伝を著している。半藤は、東京府立七中(現墨田川高校)に入学したが、空襲による疎開で旧制茨城県立下妻中学(現下妻第一高校)に移った。4カ月だけ在籍した後長岡中学に転校し卒業、旧制浦和高校を経て東大文学部に進学した。文藝春秋に入社し、名編集者となった。
半藤は、ジャーナリスト・戦史研究家でもあり、とりわけ「昭和史」について人物論、史論を多く刊行している。2015年に菊池寛賞を受賞、21年1月に死去した。