彼は、当時、日産内にはほとんど友人はいなかったので、大変革をめぐって気にすべき人たちはいなかった。また、彼は日本語がまったく話せなかったため、抵抗勢力は彼に抵抗できなかったのである。

 それゆえ、この意味で、彼はもともと大改革をめぐる人間関係上の取引コストが非常に小さい人物だったといえる。したがって、彼は変革をめぐる大きな取引コストを負担することなく、大胆にも2万5000人の社員を解雇できたし、労働組合も解体でき、そして様々な大改革も実行できたのである。

YKKが大改革するために送り込まれた人物

 同じようなことが、ファスナーの世界的な日本企業YKKでも起こっている。YKKでは、富山県に会社の心臓部である工機技術本部があり、そこであらゆる種類のあらゆる色のファスナーを製造できる機械が研究開発され、製造され、そして世界各地に配送されている。

 従来から、いつ新しい機械が世界各地の工場に納入されるかは、すべて工機技術本部が決定するという構造になっていた。しかし、これでは世界各地の変化に柔軟に対応できないと考えた社長は、現地・現場の要望をベースに、機械を製造し、配送するように変革しようとした。

 そして、そのような大改革を実行するために、工機技術本部長として富山に送り込まれたのは、当時、機械技術に関してほとんど知識のなかった文系出身の大谷渡副社長であった。