「世界史とは、戦争の歴史です」。そう語るのは、現役東大生集団の東大カルペ・ディエムだ。全国複数の高校で学習指導を行う彼らが、「戦争」を切り口に、世界史の流れをわかりやすく解説した『東大生が教える 戦争超全史』が3月1日に刊行された。世界史、現代情勢を理解するうえで超重要な戦争・反乱・革命・紛争を、「地域別」にたどった、教養にも受験にも効く一冊だ。古代の戦争からウクライナ戦争まで、約140の戦争が掲載された、まさに「全史」と呼ぶにふさわしい教養書である。元外務省主任分析官である佐藤優氏も絶賛の声を寄せる本書の内容の一部を、特別に公開する。今回は、日本が行った「台湾出兵」について紹介。

「沖縄県」はどのように生まれたのか? いまさら聞けない「琉球併合」を東大生が超要約Photo: Adobe Stock

明治政府が”ある事件”を政治に利用しようと考えた

 1874年、日本は台湾出兵を行いました。これは日本の明治政府が、“ある事件”の報復のために清の領土であった台湾に向かった出来事です。その背景には、「琉球王国を日本の領土だと国際的に認めさせたい」という思惑がありました。

 1871年10月、台湾で漂流民の殺害事件が起きました。琉球王国に属する宮古島の船が暴風雨に襲われて台湾に漂着したところ、現地の先住民に拉致され、54人が殺害されてしまったのです。

 明治政府はこの事件を政治に利用しようと考えました。台湾に報復することで、当時所属があいまいだった琉球王国を日本の一部だと知らしめようと考えたわけです。また、清に強硬な姿勢を示すことで、日本が東アジアにおいて群を抜いて発展していることを西欧諸国にアピールし、不平等条約の改正につなげたいという意図も背景にありました。

琉球王国で260年以上続いた「日中両属体制」

 当時、琉球王国は国際的には日本の一部と認められていませんでした。その理由は、琉球と中国との古くから続く関係にあります。

 中国が明の時代であった14世紀、明は近くの国々に使者を送って自国に従わせようとしました。琉球王国も明の要求を受け入れ、朝貢(中国皇帝に挨拶文・貢ぎ物を捧げ忠誠を誓うこと)、冊封(中国皇帝より国の王であることを認めてもらうこと)の関係を結び、以降は中国の支配下に置かれることになります。

 ところが、17世紀初めに薩摩藩が琉球へ出兵し、首里城を占拠して琉球国王を捕まえて服属させたのです。貿易での利益を狙ってのことでしたが、普通であればこの暴挙に明も黙ってはいないところです。

 しかし、明はちょうどこの頃、各地で暴動が頻発していて国力が低下していました。そのため、遠い小さな国の琉球王国にまで手を回せなかったのです。こうして琉球王国は、表面的には中国が、事実上は薩摩藩が支配するという「日中両属体制」が260年以上にわたって続いていたのでした。

明治政府が、台湾出兵を決断

 さて、台湾での漂流民殺害事件を受けた日本は、清に渡り、責任を追及しました。加害側の台湾は清の領土だったからです。すると、清は「琉球王国はそもそも日本ではないし、台湾の先住民のことに関しては何も関与していない」と責任を回避し、賠償金の支払いを拒否しました。

 清のこの回答を受けた日本は、これ幸いと考えます。「関与していないのなら台湾に攻め込んでも大丈夫」と解釈したわけです。

 当時の日本は、政府の分裂や地方での反乱を受け、政府への不信感が高まっていました。その不安を外に向けるためにも、明治政府は台湾出兵を決断しました。

 陸軍中将の西郷従道の指揮のもと、3000人の兵を台湾に送ったのです。こんなに大人数で出兵した理由も「日本のため、国民の安全を守るために、我々政府はここまでやる」という姿勢を国内に見せる必要があったからでしょう。

強引な行動を取った日本はひんしゅくを買う

 この出兵で日本は、事件が発生した周辺地域を占領し、頭領であった親子を殺害して報復を完了しました。そして日本は、琉球支配を国際的に承認させようとするも、その強引な行動で諸外国との関係を悪化させてしまいます。この台湾出兵は、事前に清に通達せず、言質を取ったと解釈した日本の独断的行動だったからです。

 日本側からすれば「台湾の先住民には関与していないと言ったじゃないか」という言い分ですが、清からすれば「そもそも台湾は清の領土で、勝手に攻め入るなんてあり得ない」と当然のごとく激怒します。

 加えて日本は、清と利害関係のある諸外国にも事前の通達、根回しをしていませんでした。特にイギリスからは激しい抗議を受けてしまいます。イギリスとしては、日本と清が戦争をしてアジアでの経済活動のあてが外れてしまえば、せっかくアロー戦争で整えた清との貿易の利益が上がらなくなる可能性があったからです。

日本が沖縄県を設置し、琉球を併合

 結局、イギリスの仲介で清との交渉が行われ、両国は和解にこぎつけました。清は日本軍の出兵を義挙(正義のために起こした行動)であったと認めました。

 しかし、日本はそれを逆手に取ってさらなる暴挙に出ます。そこで交わされた書面には「台湾の生蕃かつて、日本国臣民らに対して妄りに害を加え」という内容が書かれていました。これを明治政府は「清が琉球を日本の一部として認めた」と勝手に解釈し、琉球の併合を進めたのです。

 そして台湾出兵の翌年には、琉球藩に王国制度の廃止を通達し、1879年には沖縄県を設置して強制的に併合しました。これにより、琉球王国は終わりを告げます。この対応により、日本は清やイギリスなどの諸外国との関係をさらに悪化させてしまいました。

(本原稿は、『東大生が教える戦争超全史』の内容を抜粋・編集したものです)

東大カルペ・ディエム
現役の東大生集団。貧困家庭で週3日アルバイトをしながら合格した東大生や地方公立高校で東大模試1位になった東大生など、多くの「逆転合格」をした現役東大生が集い、全国複数の学校でワークショップや講演会を実施している。年間1000人以上の生徒に学習指導を行う。著書に『東大生が教える戦争超全史』(ダイヤモンド社)などがある。